生理的欲求の上に安全、その上に愛、承認、そして頂点に自己実現——世界で最も有名な心理学の図は、実は本人の論文のどこにも出てこない。あの三角形は誰が、何のために描いたのか。そして123カ国の実証データは、欲求の本当の形をどう描き直したのか。SURPLUSがこれまで追いかけてきた20本超の研究を、一枚の地図に置き直す総括編。
ピラミッド図の意外な出自(初出は1960年の経営学誌)、マズローが1943年に本当に書いていたこと、ギャラップ123カ国調査が示した「欲求は階段ではなく並列に効く」という発見。そしてSURPLUSの過去記事を欲求の4つの層に置き直した、読み直しのための地図。
2019年、経営学史の研究者たちが、ひとつの「犯人捜し」の結果を発表した。
ブリッジマンらが調べたのは、単純な問いだ。マズローのピラミッドは、いつ、どこで生まれたのか。答えは意外だった。アブラハム・マズローが欲求階層説を発表した1943年の論文「A Theory of Human Motivation」には、ピラミッドどころか、図が一枚もない。その後のマズローの著書にも、三角形は登場しない。
図の初出は14年後。1957年、経営コンサルタントのデイビスがビジネス書の中で階段状の図を描き、1960年に経営学者マクダーミドが『Business Horizons』誌——ビジネス読者向けの雑誌だ——で、初めて三角形として描いた。つまりあの図は、心理学の成果ではなく、経営学の教材として発明された。複雑な理論を管理職研修で教えやすくするための、いわばプレゼン資料である。
ピラミッドは強力だった。一目で覚えられ、どんなホワイトボードにも3秒で描ける。かくして図は理論より有名になり、マズロー本人が書かなかったニュアンスごと、世界中の教科書に刷り込まれていった。
最初のねじれ。世界で最も有名な心理学の図は、心理学者の描いた図ではない。理論が図解されたのではなく、図解が理論を上書きした——ここからすべてのボタンの掛け違いが始まる。
では1943年の原論文には何が書いてあったのか。読み直すと、ピラミッド図が切り捨てたニュアンスが次々に出てくる。
マズローは「ここまで階層が固定された順序であるかのように書いてきたが、実際にはそれほど硬直的ではない」とはっきり書いている。創造的な人は貧しくても創作に向かうし、自尊心が愛に先立つ人もいる、と例まで挙げて。
すべての欲求は同時に部分的に満たされている、というのがマズローの見立てだ。彼は仮の数字として、平均的な人では生理的欲求の85%、安全の70%、愛の50%、承認の40%、自己実現の10%が満たされている——というグラデーションを示した。階段ではなく、濃淡である。
自己実現は、下の4層をクリアした者だけが入れるVIPルームとして書かれてはいない。マズローが挙げたのは音楽家や詩人の例で、それは達成というより止められない傾向——「人は、自分がなりうるものにならずにはいられない」——として描かれている。
つまり「下の段を満たさない限り上には行けない」という、私たちがピラミッドから読み取ってきたルールは、かなりの部分、図の形が勝手に語ったものだ。三角形には積み上げの物語が組み込まれている。積み木は下から積むものだからだ。
マズローの死後、理論は長らく「有名だが実証されていない」状態にあった。1976年のワーバとブリッドウェルによる古典的レビューは、階層構造を支持する実証研究がほとんど存在しないことを指摘している。決定的な検証は2011年、テイとディーナーがギャラップ世界調査を使って行った。対象は123カ国——人類のほぼ全域である。
# Tay & Diener (2011) — ギャラップ世界調査 123カ国
# 各欲求の充足は幸福と結びついているか?
→ Yes。基本・安全・社会・尊敬・自律・熟達のすべてが
世界中どの地域でも幸福と関連(欲求の普遍性は支持)
# ただし、効き方には分業があった
人生の評価(LIFE EVALUATION) ← 主に基本的欲求(お金・衣食住)
日々のポジティブ感情 ← 主に社会的欲求・尊敬
日々のネガティブ感情 ← 基本・尊敬・自律の欠乏
# 「下の段を満たさないと上に進めない」か?
→ No。基本的欲求が満たされない状態でも、
人間関係や尊敬から幸福を得られていた(階層は並列に効く)
この結果は絶妙なバランスをしている。マズローの素材——人間の欲求のリストは普遍的で、どれも幸福に効く——は世界規模で追認された。だが、ピラミッドという建築——下から順に積み上げる構造——は支持されなかった。貧しい国の人々も、友人と家族から日々の喜びを得ていた。欲求は階段ではなく、並走する複数のレーンだった。
ここが核心。お金(基本的欲求)は「人生の評価」を押し上げ、人間関係と尊敬は「日々の感情」を支える。幸福には種類があり、それぞれ財布が違う。どちらか一方では、帳簿は埋まらない。
気づけばこのメディアは、マズローの各層を一段ずつ、現代の実証研究で検証し直していた。
そこで総括として、これまでの記事を4つの層に置き直してみる。読み直しの地図としてどうぞ。(一部は今後数週間で公開予定の記事へのリンクを含む)
並べてみると、Tay & Dienerの「分業」がそのまま浮かび上がる。土台の層の記事はお金と人生の評価の話をしており、つながりの層の記事は日々の感情の話をしている。承認の層だけが、幸福を生みも殺しもする両刃で、伸びる層は誰の許可も待たずに始まっている。
マズロー研究者のスコット・バリー・カウフマンは、ピラミッドに代わるメタファーとして帆船を提案している。船体(安全・つながり・自尊心)が安定を与え、帆(探求・愛・目的)が前進を与える。船体に穴が空けば帆どころではないが、帆を張るのに船体の完成を待つ必要はない。人生はレベル制のゲームではなく、揺れる海を進む航海だ、と。
SURPLUSの言葉で言い直せば、こうなる。ピラミッドの各層は、GDPや家計簿への映りやすさがまるで違う。土台の充足は市場で取引され、統計によく映る。だが上へ行くほど——共食、友情、尊敬、自律、経験——取引されず、値札がつかず、帳簿から消えていく。
総括。マズローが本当に遺したのは三角形ではなく、「人間の欲求は複数あり、どれも本物だ」というリストだった。123カ国の実証はそれを裏書きした上で、順番の縛りを外した。幸福の帳簿は、下から順に埋める必要はない。ただし、どの行も空欄のままにはできない——それがこの20本の記事の、いまのところの結論である。
この地図は完成品ではない。承認の層のダークサイド、測定できない層の測定——書くべき残りのマスは、まだいくつも空いている。SURPLUSはこれからも、帳簿に映らない行を一つずつ埋めていく。
この記事が依拠する研究と、その源流。矢印は「依拠する親」を指す。
本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
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