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モノより経験、そして"待つ間"

同じ金額を使うなら、モノより経験を買った方が幸福になる——この発見は20年以上前からある。だが本当に面白いのは、その幸福が手に入れる前、予約ボタンを押した瞬間からもう始まっているという話だ。そしてこの効果、2025年にアメリカ以外でも確認された。

この記事で手に入るもの

モノより経験が幸福に効く理由、経験が比較されにくいという位置財の呪いからの逃げ道、そして買う前のアンティシペーション(期待)そのものが幸福の一部だという発見。2025年、ハンガリーでの追試で「アメリカ人だから」という反論も退けられた。

01 — 同じ金額でも、幸福の量が違う

モノは色褪せる。経験は色褪せにくい

Van Boven & Gilovich(2003)は、人々に「モノを買った経験」と「経験を買った出来事」をそれぞれ思い出してもらい、どちらがより多くの幸福をもたらしたかを比較した。結果は一貫して経験に軍配が上がった。

理由の一つは、モノは所有した瞬間から劣化・陳腐化が始まり、比較対象(新型が出た、隣の家がもっといいのを買った)にさらされ続けることにある。一方、経験は一度きりで完結し、記憶の中で時間とともに美化されやすい。思い出は、劣化ではなく発酵する。


02 — 経験は、比較されにくい

位置財の呪いから、半分だけ逃げられる

Carter & Gilovich(2010)は、モノと経験のもう一つの違いを実証した。モノは他人の所有物と直接比較しやすいが、経験は比較の物差しそのものが作りにくい

「あなたの旅行と私の旅行、どちらが優れているか」を厳密に順位づけるのは難しい。それぞれの経験は一回性が強く、代替不可能だからだ。以前の記事で見た「幸福を左右するのは所得の絶対額でなく周囲との順位」という位置財の罠を思い出してほしい。経験への支出は、この比較というゼロサムゲームから、部分的に降りる手段にもなっている。


03 — 買う前から、もう幸せは始まっている

"待つ間"のアンティシペーション

ここからが本題だ。Kumar, Killingsworth & Gilovich(2014)の研究「Waiting for Merlot」は、購入の、つまり待っている期間そのものに焦点を当てた。

スキー旅行やコンサートチケットなど経験を予定している人と、服やパソコンなど物を購入予定の人を比較すると、経験を待っている人の方が、その待ち時間自体をより楽しく、より心待ちに感じていた。モノを待つ時間はしばしば焦りやせっかちさを伴うが、経験を待つ時間は純粋な期待として味わえる。

ここが核心。経験がもたらす幸福の総量は、手に入れた瞬間に発生するのではない。予約した日から、当日を迎えるまでの「待つ時間」そのものが、すでに配当を生んでいる。


04 — 2025年、アメリカ以外でも確認された

「アメリカ人だから」という反論への回答

この経験優位の効果には、長らく一つの疑問符がついていた。研究の大半がアメリカの調査対象に基づいており、個人主義的でモノより経験を語ることが「かっこいい」とされる文化圏特有の現象ではないか、という疑いだ。

Hajdu & Hajdu(2025)は、社会経済状況も消費文化もアメリカとは異なるハンガリーで、この効果を検証した。オンライン調査で匿名性を確保した設計のもとでも、経験からの幸福報告はモノからの幸福報告を明確に上回った。さらに、「モノより経験と答える方が社会的に見栄えが良い」という社会的望ましさバイアスの影響も分析したが、その効果は幸福ギャップ全体を揺るがすほど大きくはなかった。

ここが2つ目の核心。経験優位はアメリカ文化のポーズではない。東欧という別の文化圏でも、見栄を差し引いてもなお、経験はモノより幸福を生んでいた。


05 — なぜ経験は色褪せにくいのか

社会的なつながりと、自己物語への編み込み

経験が長続きする理由は、記憶の美化だけではない。多くの経験は誰かと共有され、それ自体がつながりを生む共同作業になる。一人で買うモノより、誰かと過ごす経験の方が、関係を深める反復の一部になりやすい。

加えて、経験は「自分がどんな人間か」という自己物語に編み込まれやすい。「あの旅行で自分は変わった」とは言えても、「あの財布を買って自分は変わった」とはあまり言わない。経験は、ただの消費で終わらず、その人のアイデンティティの一部になっていく。


06 — 見えない豊かさとしての「まだ来ない経験」

予約した瞬間、豊かさはもう発生している

結論。経験がもたらす幸福は、当日一日分の出来事ではない。予約してから当日を迎えるまでの期待、経験そのもの、そして色褪せにくい記憶——この3つの合計が、モノにはない総量を生む。家計簿にはまだ何も記録されていない「これから起きること」への期待こそ、値札のつかない、しかし確かにいま味わえている豊かさだ。

この「期待」という感情そのものは、羨望や自己同一性とも深く関わっている。次は、この期待の仕組みを裏側から見て、人が本当は何を欲しがっているのかを引き出す方法を掘り下げる。


07 — この記事の位置づけ

幸福研究のどの枝か

この記事が依拠する研究と、その源流。矢印は「依拠する親」を指す。Van Boven & Gilovichの経験優位論を根に、比較耐性・アンティシペーション・文化間の追試へ枝が伸びる。

根:経験優位論 展開:比較耐性/期待 追試:文化間比較 To Do or to Have? That Is the Question (2003) — 経験購入はモノの購入より多くの幸福をもたらすという発見の出発点。 Van Boven & Gilovich 2003 記事: experience The Relative Relativity of Material and Experiential Purchases (2010) — 経験は比較の物差しが作りにくく、位置財的な比較にさらされにくい。 Carter & Gilovich 2010 記事: experience Waiting for Merlot (2014) — 経験購入は待つ期間そのものがより楽しく、期待として味わえる。 Kumar, Killingsworth & Gilovich 2014 記事: experience The Experiential Advantage in Consumption: Evidence from Hungary (2025) — 非米国(ハンガリー)での追試。社会的望ましさバイアスを統制してもなお経験優位は頑健。 Hajdu & Hajdu 2025 記事: experience

08 — 出典

参考文献

本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。

01
Van Boven, L. & Gilovich, T. (2003)To Do or to Have? That Is the Question. Journal of Personality and Social Psychology 誌。経験購入がモノの購入より幸福をもたらすことの出発点。
02
Carter, T. J. & Gilovich, T. (2010)The Relative Relativity of Material and Experiential Purchases. Journal of Personality and Social Psychology 誌。経験は比較されにくいことの出典。
03
Kumar, A., Killingsworth, M. A., & Gilovich, T. (2014)Waiting for Merlot: Anticipatory Consumption of Experiential and Material Purchases. Psychological Science 誌。購入前の期待(アンティシペーション)自体が幸福を生むことの出典。
04
Hajdu, G. & Hajdu, T. (2025)The Experiential Advantage in Consumption: Evidence from Hungary. Social Indicators Research 誌。非米国での追試、社会的望ましさバイアスの統制。
SURPLUS BOOKS VOL.1

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