匿名の富豪夫妻が、世界7カ国の200人に1万ドル(約150万円)ずつ配り、「3ヶ月で使い切ってください」とだけ頼んだ。何に使えば幸福は最も増えるのか——18年前の名作実験の追試失敗から、史上最大級の「買い物と幸福」実測実験まで。お金の使い方の巧拙は、いまや数値で測れる。
「他人にお金を使うと幸せになる」という定説が追試で揺らいだ経緯、1万ドル×200人の実測実験が示した「幸福を生む支出」のランキング、そしてSNSで公開した瞬間に寄付や贈り物の幸福が減るという発見。同じ金額でも、幸福の産出量は使い方で変わる——その差を測った数字を持ち帰れる。
はじまりは、封筒に入った5ドルだった。
2008年、ブリティッシュコロンビア大学のエリザベス・ダン、ララ・アクニン、ハーバードのマイケル・ノートンは、キャンパスで学生に朝、現金入りの封筒を渡した。中身は5ドルか20ドル。半分の人には「今日の夕方5時までに自分のために使ってください」、残り半分には「誰か他の人のために使ってください」と指示した。
夜に幸福度を測ると、結果は明快だった。他人のために使った群のほうが幸せだった。しかも5ドルでも20ドルでも差はなかった。効いたのは金額ではなく、使い道だった。
この研究は『Science』に載り、「向社会的支出(prosocial spending)」という研究分野を作った。ダンとノートンは後に『Happy Money』を著し、TEDの舞台で世界に広めた。「お金で幸福が買えない」のではなく、買い方を知らないだけ——この反直感的なメッセージは、行動経済学の定番ネタになった。
ただし、一つだけ注釈がある。この名作実験の参加者は、わずか46人だった。この数字が、14年後に問題になる。
2010年代、心理学は「再現性の危機」に直面した。教科書に載るような有名実験を別のチームがやり直すと、かなりの割合で同じ結果が出ない。名作は次々に追試の法廷に呼び出され、向社会的支出も例外ではなかった。
2022年、キムらの研究チームが2008年実験の唯一の実験パート(例の封筒実験)を、ほぼ同じデザインで追試した。参加者は133人——元の約3倍である。結果は『PLOS ONE』に載った。
つまり、効果は「ゼロだった」わけではない。だが、46人の実験が18年間語られてきたほど頑健でもなかった。効果はあるかもしれないが、思っていたより繊細——それが2022年時点の正直な結論だった。
決着をつけるには、もっと大きく、もっと現実に近い実験が要る。そしてそれは、意外な形でやってきた。
2020年代初頭、匿名の富豪夫妻が総額200万ドルの私財を、ある実験に投じた。
世界7カ国(アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ブラジル、インドネシア、ケニア)から選ばれた200人に、1人1万ドル(約150万円)を渡す。条件はただ一つ、3ヶ月で使い切ること。そして毎月、何を買ったか、その買い物がどれくらい幸せをもたらしたかを1〜5点で報告してもらう。事前登録済みの比較対照群つき実験である。
まず全体の結果(Dwyer & Dunn, 2022, PNAS)。お金を受け取った群は、使い切った3ヶ月後も、さらに3ヶ月経った半年後も、対照群より幸福度が高かった。現金は幸福を買えた。ただし効きは一様ではない。低所得国の参加者は高所得国の約3倍の幸福増を得た一方、世帯年収12.3万ドルを超える層では、有意な改善が検出できなかった。
そして2024年、この実験の「レシート」を1枚ずつ分析した論文が出る(Stenlund et al., Communications Psychology)。参加者は平均16回の買い物をし、1回あたり平均565ドルを使っていた。どの買い物が、どれだけ幸福を生んだのか。
# 買い物レベルの分析(約3,200件の購入記録)
# 「その買い物の幸せ度」上位カテゴリ
1位 寄付・慈善 → 最高水準
2位 贈り物(家族・友人へ) → ほぼ並ぶ
3位 経験(旅行・外食・イベント)
番外 教育への支出 # 過去研究で見過ごされてきた伏兵
# 「幸せな買い物」は本人の幸福全体を押し上げたか
購入幸福度 +1点 → 3ヶ月後の主観的幸福感 +0.35 (p<0.001)
→ 6ヶ月後も +0.23 (p=0.012) で持続
2008年の封筒実験が示した「他人に使うと幸せ」は、46人の学生ではなく、7カ国200人の現実の家計で、金額を200万倍にしても再現された。寄付と贈り物は、旅行や外食を抑えてランキングの頂点に立った。
名作は復権した。ただしこの実験は、定説に誰も予想しなかった但し書きを付け加えた。それが次のセクションだ。
この実験には、もう一つ仕掛けがあった。参加者の半分は買い物の内容をTwitter(現X)で公開する条件、残り半分は誰にも知らせない非公開条件に割り当てられていたのだ。
結果は行動経済学者すら驚かせた。公開条件では、寄付から得られる幸福が0.32点、贈り物から得られる幸福が0.23点も低かった。幸福ランキングの1位と2位——つまり「人のために使うお金」だけが、見られることでダメージを受けた。旅行や日用品では、この差はほとんど出なかった。
なぜか。研究チームは自律性(autonomy)で説明する。自己決定理論によれば、人が行動から喜びを得るには「自分で選んだ」という感覚が要る。誰にも見られずにする寄付は、純粋に自分の意思の表現だ。だが公開された瞬間、同じ寄付が「評判のための支出」の色を帯びる。見せた瞬間、贈与は取引に変わる。そして取引からは、あの温かさ——研究者たちが「warm glow」と呼ぶもの——が抜け落ちる。
ここが核心。「他人にお金を使うと幸せになる」は本当だった。ただし正確には、こう書くべきだった——人知れず、他人にお金を使うと幸せになる。善行の投稿があふれるSNS時代に、幸福の側はずいぶん皮肉な設計になっている。
思えば、寄付文化の長い歴史には「匿名の篤志家」という定型がある。この実験の資金提供者自身が匿名の夫妻だったことまで含めて、話の輪郭はきれいに閉じている。
2011年、ダンはギルバート、ノートンとともに一本のレビュー論文を書いた。タイトルは挑発的だ——「お金で幸福が買えないなら、あなたはたぶん使い方が下手なだけ」。そこに挙げられた原則のうち、今回の1万ドル実験が実証の裏書きを与えたものを並べてみる。
買い物レベルの実測でも、経験は上位カテゴリに入った。この効果の理屈(比較されにくい・記憶の中で発酵する)は、それだけで一本の記事になる蓄積がある。
寄付と贈り物はランキングの頂点。ただしSNSで公開すると効果が削れる。「いいね」と引き換えに、warm glow を手放している可能性がある。
幸福は強度より頻度が効く。1万ドル実験の参加者も平均16回に分けて使った。565ドル×16回は、9,040ドル×1回より多くの「幸せの計測点」を生む。
過去の幸福研究がほとんど注目してこなかった「教育への支出」が、実測では上位に食い込んだ。自分の可能性への投資は、経験と資産の両方の性質を持つ。
SURPLUSがずっと追いかけているのは、GDPや家計簿に映らない豊かさだ。今回の実験が示したのは、その豊かさが支出の「額」ではなく「配分」から生まれるということである。同じ565ドルが、レシートの上では等しく565ドルと記録され、幸福の帳簿では何倍も違う値を取る。
家計簿は支出のカテゴリを記録するが、幸福のカテゴリは記録しない。その見えない列にこそ、消費者余剰ならぬ「幸福の余剰」が眠っている——それを測る道具立てが、ようやく揃いはじめた。
この記事が依拠する研究と、その源流。矢印は「依拠する親」を指す。
本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
連載の主要記事を1冊に再構成し、書き下ろしを加えたKindle本です。数字では測りにくい豊かさを、所得・時間・関係・自由の視点から読み直します。
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