好きだったバンドが売れた瞬間、なぜか冷める。誰もが持ち始めたブランドは、急に「ダサく」見える。この天邪鬼な心の動きには、実は75年前から経済学の名前がついている——スノッブ効果。そして株式市場では、この「大衆の逆を行く」行動が、感情ではなく数字の裏付けを持つ戦略として研究されてきた。逆張りとは何か。ただの反抗心か、それとも合理か。
「流行ると冷める」心理の経済学的な正体=スノッブ効果(Leibenstein 1950)。市場の負け組株が勝ち組を3年で約25%上回ったという逆張り投資の古典的証拠。そして、賢い逆張りと、ただの天邪鬼を分ける一本の線——最後に残るのは「他人の座標軸から降りる」という、このシリーズらしい結論だ。
経済学の教科書では、モノの需要は「価格」と「品質」で決まることになっている。安くて良いものは、たくさん売れる。だが現実の私たちの欲望は、もっとひねくれている。
インディーズ時代から追いかけていたバンドが紅白に出たら、なぜか聴かなくなった。誰も知らない喫茶店が、SNSでバズって行列店になったら、足が遠のいた。モノ自体は何ひとつ変わっていない。変わったのは「他の人がどれだけそれを消費しているか」だけだ。
1950年、経済学者ハーヴェイ・ライベンシュタインは、この「他人」を需要理論に正面から持ち込んだ。彼の答えはこうだ——私たちの需要には、モノの機能とは無関係な「非機能的な需要」が混ざっている。そしてそれは、はっきり3種類に分けられる。
ライベンシュタインの論文「Bandwagon, Snob, and Veblen Effects」は、他人があなたの欲望に忍び込む経路を3つに整理した。
注目すべきはスノッブ効果の奇妙さだ。通常の経済学では、需要曲線は「価格が下がれば需要が増える」方向にしか動かない。だがスノッブにとっては、他人の消費量が増えること自体が「値上がり」と同じ効果を持つ。財の中身が同じでも、「みんなのもの」になった瞬間、その財は別物になる。
ここで気づく。バンドワゴンもスノッブも、向きが逆なだけで構造は同じだ。どちらも「他人の消費量」が自分の価値判断の座標軸になっている。順張りも逆張りも、他人を見ている点ではまったく同類——この伏線は、最後に回収する。
「大衆の逆を行く」が、気分の問題ではなく金になる戦略だと示したのが、行動経済学の古典、デ・ボントとセイラー(1985)の「Does the Stock Market Overreact?(株式市場は過剰反応するか)」だ。
彼らはニューヨーク証券取引所の長期データで、過去3年の成績が最悪だった「負け組」銘柄と、最高だった「勝ち組」銘柄を追跡した。効率的な市場なら、その後の成績に差は出ないはずだ。結果は——
# De Bondt & Thaler (1985) ポートフォリオ形成後 36 ヶ月
過去の「負け組」銘柄 勝ち組を約 25% 上回るリターン
効果の非対称性 負け組側の跳ね返りの方がずっと大きい
なぜこうなるのか。彼らの説明は心理学的だ。投資家は悪いニュースに過剰反応する。悲観が実力以上に株価を叩き潰し、熱狂が実力以上に持ち上げる。その行き過ぎは、時間とともに修正される。だから「大衆がパニックで投げ売ったもの」を拾う逆張りは、平均的には報われる——大衆の判断には、系統的なバイアス(歪み)が含まれているからだ。
賢い逆張りの条件がここにある。それは「みんなと逆のことをする」ではない。「みんなが感情で行き過ぎたときだけ、逆を向く」だ。根拠は反抗心ではなく、大衆の過剰反応という測定可能な歪みにある。
では、儲かるかどうかに関係なく、私たちが日常で逆張りしたくなるのはなぜか。心理学は少なくとも2つの装置を特定している。
ブレームが提唱した古典理論。人は「自分の行動の自由が脅かされている」と感じると、その自由を取り戻そうと猛烈に反発する。「みんなこれを選んでいます」という圧は、ある種の人にとって自由の侵害に聞こえる。だから、あえて選ばない。
スナイダーとフロムキンの研究。人は集団に完全に埋もれることに心理的な不快を覚え、「自分は違う」を確認するための消費や意見表明を行う。この欲求が強い人ほど、流行を意図的に避け、マイナーな選択肢へ向かう——まさにスノッブ効果の心理的エンジンだ。
つまり逆張りには2種類ある。デ・ボントとセイラーが示した「大衆の歪みに賭ける合理の逆張り」と、リアクタンスと独自性欲求が駆動する「自分らしさを守るための本能の逆張り」。厄介なのは、後者が前者のふりをすることだ。反発しているだけなのに、「自分は本質を見抜いている」と感じられてしまう。
ここで、02節の伏線を回収しよう。バンドワゴン(順張り)とスノッブ(逆張り)は、向きが逆なだけで構造が同じだった。どちらも、価値の物差しを他人に預けている。多数派に乗るのも、多数派を避けるのも、参照点は常に「みんな」だ。
本当に他人から自由な選択とは、逆張りですらない。それは、このシリーズが最初から使ってきた、あの物差しに戻ることだ——自分の留保価格。つまり「他の誰が持っていようがいまいが、自分はこれに、いくらまで払うか」。王様と抗生物質の回で見たように、この問いは流行にも希少性にも汚染されない、いちばん頑丈な価値の測り方だ。
流行りものに冷めた自分に気づいたら。一度だけ自問してみてほしい。「これが誰にも知られていなくても、誰もが持っていても、自分はいくら払うか?」。答えが変わらないなら、それがあなたの本当の好みだ。変わるなら——あなたはまだ、他人の座標の上にいる。
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