← SURPLUS / 記事一覧へ The Economics of New Goods ・ 見えない豊かさの経済学

ルイ14世の全財産は、
100円の抗生物質に負ける。

17世紀の太陽王がタイムスリップして、現代の東京で暮らす1Kのフリーターを見たら——おそらく嫉妬する。この直感を、経済学は「留保価格」と「消費者余剰」という2つの道具で、きちんと数字にしてしまう。値札には決して出てこない、私たちが毎日タダで受け取っている「絶対的な豊かさ」の話。

この記事で手に入るもの

モノの価値を「売値」ではなく「それが無かったら、いくら出すか」で測り直す思考の型。ノーベル賞経済学者ノードハウスの「光の価格」から、王様が抗生物質に国を売る理由までを一気に辿り、「時代が進むほど人類は豊かになった」を数式で言い切るための足場が手に入る。

01 — 思考実験

太陽王を、現代の1Kアパートに住まわせてみる

経済史のちょっと意地悪な思考実験がある。「17世紀のルイ14世に、こう提案したらどうなるか」というものだ。

——あなたの全財産、宮殿も領地も没収します。代わりに、現代の東京にある1Kのアパートと、スマホ、ネット環境、そして近代医療を一生ぶん差し上げます。どちらを選びますか?

多くの経済史家は「合理的な王様なら、迷わず現代を選ぶ」と考える。ヴェルサイユを建てた絶対君主が、家賃8万円の部屋を選ぶ。直感的には奇妙だが、理由を一つ挙げれば足りる。ルイ14世は、歯の痛みと感染症で、実際に苦しみ抜いて死んでいるからだ。

問いを立て直そう。「王様と現代人、どちらが金持ちか」ではない。「王様が全財産をはたいても買えなかったものを、現代人はいくらで買っているか」だ。答えは、たいてい数百円である。


02 — 核心概念

「留保価格」——存在しなかった時代の、見えない値札

この直感を数字に変える鍵が、留保価格(reservation price)という考え方だ。ヒックスにちなんで「ヒックスの留保価格」とも呼ばれる。

定義はシンプルだ。「その財がもし手に入るなら、あなたは最大でいくらまで払うか」。この上限額が留保価格。そして新製品の経済学は、ここに一つの大胆な設定を置く。

01

新製品は「生まれる前、価格は無限大」だった

ペニシリンが発明される前、抗生物質の供給量はゼロだった。供給がゼロということは、需要曲線上では「価格は事実上、無限大」に置ける。いくら積んでも手に入らないのだから。1997年の名著『The Economics of New Goods』(Bresnahan & Gordon 編)は、この「供給ゼロ=無限の留保価格」を出発点に据えた。

02

だから「差額」がまるごと利益になる

王様が抗生物質1錠に払ってもいい上限額は、事実上「国を売ってでも」——つまり天文学的だ。一方、現代のあなたはそれを薬局で数百円で買える。この 留保価格 − 実売価格 の巨大な差額こそ、あなたが手にしている取り分だ。

03

その差額の名前が「消費者余剰」

経済学はこの差額を 消費者余剰(consumer surplus)と呼ぶ。財布からは1円も追加で出ていかないのに、確かに受け取っている価値。GDP(お金の動き)には現れないが、あなたの人生の満足度には確実に足し算されている。これが「見えない豊かさ」の正体だ。


03 — 実証

ノードハウスが測った「光の価格」——40万倍の落差

この「見えない豊かさ」を、実際に数字で叩き出した経済学者がいる。ノーベル経済学賞を受けたウィリアム・ノードハウスだ。彼が選んだ題材は、意外にも 「光(照明)」 だった。

彼は問うた。「同じ明るさ(同じルーメンの光)を得るのに、時代ごとに人間は何時間ぶんの労働を払ってきたか?」。値段ではなく労働時間で測るのがミソだ。時代を超えて比較できる、絶対的な物差しになるからである。

# 「電球1個ぶんの光」を得るための実質コスト(労働時間換算)
古代バビロニア  ごま油ランプ + 奴隷    ≒ 現代の約 400,000 倍
19世紀        獣脂ろうそく           大幅に低下
現代          LED電球               ≒ ほぼ 0(一瞬の労働)

バビロニアの王が、ごま油のランプで現代の電球1個ぶんの明るさを得ようとすると、現代の一般労働者のおよそ40万倍のコストがかかっていた。逆に言えば、私たちは「王様が奴隷を使って必死に得た光」を、スイッチひとつ・ほぼ無料で毎晩浴びている。

ノードハウスの指摘はここだ。従来のGDP計算は、電気や医療といった新技術がもたらした「絶対的な豊かさ」を過小評価しすぎている。値段が下がったモノほど、統計上は「小さな存在」になってしまう。だが人間の実感では、それこそが人生を変えた当のものだ。


04 — 逆算

「寿命は、いくらで売ってくれますか」

留保価格の考え方は、モノだけでなく「命」や「痛みの解消」にも適用できる。ここで話は一気に重みを増す。

行動経済学には「寿命を1年延ばせるなら、年収の何%を差し出すか」という問いがある。現代人は、健康と寿命に対してかなりの金額を払う。だが決定的なのは、100年前の王様は、どれだけ金を積んでも寿命を買えなかったという事実だ。医療技術そのものが、この世に存在しなかったからである。

抗生物質の留保価格(王様にとって)感染症=高確率の死。回避できるなら、事実上「全財産+国」。上限は測定不能なほど高い。
抗生物質の実売価格(あなたにとって)数百円。処方箋一枚。数分の待ち時間。
差額=消費者余剰「国ひとつ」と「数百円」の間にある、途方もない隔たり。これを毎回、受け取っている。

つまり現代の医療技術は、過去の王様にとって「値段のつけようがないほど高価」だった。その同じものを、私たちはコンビニで買えるレベルの価格で手にしている。この差こそが、文明が積み上げてきた「絶対的な幸福のボーナス」だ。


05 — 結論

あなたは毎日、王様が買えなかった価値を消費している

「幸福は相対的なものだ」とよく言われる。マウントを取る相手が過去にいて、隣人と比べて一喜一憂する。それは半分正しい。だが経済史が示すのは、その相対性の下に 絶対的な尺度がちゃんと存在する ということだ。

留保価格で測れば、時代を超えて豊かさを比べられる。人骨の平均身長で測れば、栄養と生活の質を数千年さかのぼって追える。ポジティブな単語の比率で測れば、200年前の人々の気分すら現代の基準に換算できる。物差しは、思っているよりずっとたくさんある。

今夜、部屋の電気をつけるとき。あなたはバビロニアの王が40万倍の労働を払って得た光を、指一本で浴びている。頭痛がすれば、太陽王が国を売ってでも欲しかった薬を、100円で飲む。値札には出ない。GDPにも乗り切らない。それでも——確かに受け取っている。

次回は、この「見えない豊かさ」が現代でどう爆発しているかを見る。無料の検索・地図・SNS・動画。それらが、実はお金持ちよりも一般人の格差を猛烈に埋めているという、最新の経済学の話だ(GDP-B と「デジタル厚生」)。豊かさは、まだ計り終わっていない。


06 — 出典

参考文献

本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。

01
Bresnahan, T. F. & Gordon, R. J.(編)(1997)The Economics of New Goods. University of Chicago Press(NBER Studies in Income and Wealth, Vol.58)。留保価格・新製品の経済学の枠組み。
02
Nordhaus, W. D. (1997)"Do Real-Output and Real-Wage Measures Capture Reality? The History of Lighting Suggests Not." 前掲書 The Economics of New Goods 所収。「光の価格」=40万倍の労働時間換算データの出典。
03
Hicks, J. R. (1939)Value and Capital. Oxford University Press. 留保価格(reservation price)の理論的基盤。
SURPLUS BOOKS VOL.1

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