お金の貧困線なら誰もが知っている。だが経済学には、もう一つの見えない貧困線がある——時間の貧困線だ。所得は十分でも、働き、通い、世話をするだけで一日が尽きる人がいる。1977年に名づけられたこの貧困は、GDPには決して映らない。
「時間貧困」という概念を1977年に定義した経済学者の発想、それを「自由の新しい物差し」へと発展させた6カ国比較研究、そして世界のどこでも時間貧困が女性に偏って重くのしかかるという実証データまで。
1977年、経済学者クレア・ヴィッカリーは、ある奇妙な世帯に気づいた。所得は貧困線を上回っているのに、生活は貧困そのものに見える世帯があったのだ。
原因は時間だった。共働きで、通勤に長い時間を取られ、家事や育児を外注する余裕もない世帯では、稼いだ所得を実際に使って生活の質を上げる時間そのものがない。ヴィッカリーはこれを「時間貧困(time poverty)」と名づけ、所得の貧困線と同じ発想で「時間の貧困線」を定義した——仕事・通勤・家事・睡眠などの必要活動を済ませたあとに残る裁量時間が、一定の最低限を下回る状態だ。
従来の貧困測定は、所得または消費支出だけを見る。1世帯あたりの必要な生活費を下回るかどうかで線引きする。
労働・通勤・家事・睡眠などの「必要活動」に費やす時間を積み上げ、残った裁量時間が一定の最低限を下回れば「時間貧困」とみなす。
ここが核心。所得だけを見る貧困測定は、時間を使い切って所得を消費する機会そのものを失っている人を見落とす。財布は貧しくなくても、時間割はすでに破綻している——そういう人を、統計は「貧困」と呼ばない。
ヴィッカリーの発想を、比較可能な指標にまで磨き上げたのが、ロバート・グッディンらの研究チームである。
グッディン、ライス、パルポ、エリクソンの『Discretionary Time: A New Measure of Freedom』(2008)は、アメリカ・オーストラリア・ドイツ・フランス・スウェーデン・フィンランドの6カ国を対象に、「裁量時間(discretionary time)」という新しい自由の指標を構築した。必要な生活費を稼ぐのに要する労働時間、家事・育児に費やさざるを得ない時間、睡眠などの生理的必要時間——これらすべてを差し引いた残りが、その人が本当に自由に使える時間だという発想だ。
結果は、国によって裁量時間の分布が大きく異なることを示した。同じ「先進国」でも、保育や介護をどれだけ社会全体で肩代わりするかという福祉制度の設計次第で、市民が手にする自由の総量そのものが変わる。所得の平等だけでなく、時間の平等もまた、政策で動かせる変数だということだ。
エレナ・バルダシとクエンティン・ウォドン(2010)は、ギニアを対象に時間貧困を測定し、その分布がきれいに性別で割れることを実証した。
二人は時間貧困を、単に忙しいことではなく「世帯が貧困線を割らないために、選択の余地なく長時間働くこと」と定義し直した。つまり時間貧困とは、お金の貧困と時間の欠如がセットになって、逃げ場をなくす状態である。ギニアの調査では、農村部の女性が家事労働に週平均25.6時間を費やしていたのに対し、男性はわずか7.2時間だった。稼ぐための労働に家事労働が積み増しされる分だけ、女性の裁量時間は先に尽きる。
お金の貧困とジェンダーの不平等は、それぞれ独立に語られることが多い。だが「時間」という軸で見ると、この二つは同じ制約の中で重なり合っている。
結論。GDPも所得統計も、お金の動きしか記録しない。だが人の生活の質は、お金だけでなく、使える時間がどれだけ残っているかで決まる。時間貧困は、豊かな社会の内部にひっそりと存在し続ける、見えない貧困線である。
では、この二重の制約——お金の不足と時間の不足——から、そもそも「抜け出す」という選択をした人たちは、何を得て何を失うのか。次回は、地元を離れて都会へ向かった人たち、とりわけ女性たちの選択を追う。
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