交通手段は歩行から馬車、鉄道、自動車へと数千年をかけて劇的に進化した。だが、人が1日に移動へ費やす時間だけは、驚くほど変わっていない。約1時間——これが「マルケッティ定数」だ。
新石器時代から現代まで移動時間が約1時間で一定だったというマルケッティの人類学的発見、携帯電話ビッグデータによる2014年の実証、そしてこの「定数」は本当に不変なのかという異論まで。
前回の記事では、お金で時間を買う話をした。家事代行や宅配にお金を払えば、確かに自由時間は増える。だが、お金をいくら積んでも縮まらない時間予算が、もう一つある。移動だ。
イタリアの物理学者チェーザレ・マルケッティは1994年、人類が移動に費やす時間には奇妙な規則性があることを指摘した。徒歩の時代も、車の時代も、人は1日およそ1時間を移動に使う——この現象は「マルケッティ定数」と呼ばれている。
マルケッティ(1994)は、交通技術者ヤコブ・ザハビが1970年代に見出した知見を引き継ぎ、新石器時代から現代までの都市を比較した。結論は一貫している——移動時間ではなく、移動距離の方が、技術に応じて変化してきたのだ。
時速5km程度の徒歩を基準にすると、1時間で往復できる範囲の半径はおよそ2.5〜5km。古代・中世都市の多くが、この範囲に収まる規模で形成されていた。
移動速度が数倍〜十数倍になっても、人が1日に割く移動時間の総量はほぼ変わらない。その結果、都市が広がる半径だけが、速度に比例して数十kmへと拡大した。
ここが核心。技術は移動の速度を上げる。だが人が費やす時間の予算までは増やさない。速くなった分、都市はただ面積で広がっただけだった。
Kung, Greco, Sobolevsky & Ratti(2014)は、ポルトガルとコートジボワールという都市構造がまったく異なる2つの国で、数百万件規模の携帯電話の位置データから通勤パターンを解析した。
都市の規模やインフラが大きく異なるため、住民が通勤に移動する距離は都市ごとに大きくばらついた。ところが、通勤にかかる時間の分布は、驚くほど狭い範囲に収まっていた。マルケッティが人類学的な観察から導いた「1時間」という規則性が、21世紀のビッグデータでも独立に裏付けられた形だ。
とはいえ、この「定数」を無条件に信じるべきではない。モクタリアン&チェン(2004)は、移動時間予算に関する実証文献を包括的にレビューし、個人レベルでは「不変」と呼べるほどの一貫性は見られないと結論づけた。
つまり「1時間」は、集団を平均したときに現れる中心的傾向であって、一人ひとりに当てはまる鉄則ではない。マルケッティの発見の価値は「不変の法則」というより、都市という巨大なシステムの背後にある、緩やかだが強い引力を言い当てた点にある。
在宅勤務の広がりは、この「1時間」への最大の挑戦に見える。通勤そのものが消えるなら、移動時間予算はゼロになってもおかしくない。
だが、まだ答えは出そろっていない。前回の記事で見た「タイムコンフェッティ」——自由になったはずの時間が、通知や別の用事によって細切れに再び埋まっていく現象——を踏まえると、消えた通勤時間がそのまま質の高い自由時間に変わるとは限らない。オンライン会議への「移動」や、画面越しの雑談への切り替えという形で、目に見えない移動時間が別の姿を取って生き残っている可能性もある。マルケッティ定数が本当に崩れたのか、それとも形を変えて存続しているのか——これは、今後のデータの蓄積を待つべき、開かれた問いだ。
結論。人がどれだけ速く動けるようになっても、移動に割く時間の総量はほとんど変わらない。この緩やかな規則性が、徒歩の都市から車社会の郊外まで、都市という空間の「形」そのものを決めてきた。速度は買えても、1日24時間という予算そのものは、誰にとっても変わらない。
次回は、この二つの時間予算——お金で買う時間と、動くために使う時間——を重ね合わせたときに見えてくる「時間貧困」の話をする。
この記事が依拠する研究と、その源流。矢印は「依拠する親」を指す。
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