スマホから地図アプリを消せと言われたら、あなたはいくら払ってでも拒否するだろうか。その金額こそが、GDPという指標がまるごと見落としている「無料の豊かさ」の正体だ。
「無料の財の価値をどう測るか」という難問に、経済学者たちが数百万人規模のオンライン選択実験で挑んだ顛末と、GDPを補完する新指標「GDP-B」の考え方、そしてこの指標が明かした意外な発見まで。
GDP(国内総生産)は、ある期間に国内で生み出された財・サービスの市場価値の合計だ。裏を返せば、市場で値札がつかないものはどれだけ人々の生活を豊かにしていても、GDPには一切反映されない。検索エンジン、地図アプリ、SNS、無料の翻訳ツール——スマートフォン一台に詰め込まれたこれらのサービスは、利用者から一円も徴収せずに、広告収入というかたちで別のところからお金を得ている。
この「無料」という価格設定そのものが、統計上の盲点を生む。ある財が広く使われ、人々の生活を大きく変えていても、価格がゼロならGDPへの寄与もほぼゼロとして計上される。デジタル経済が拡大するほど、GDPという物差しは、経済活動の実態からじわじわとずれていく。
この盲点に正面から挑んだのが、経済学者ブリニョルフソンらのチームだった。ブリニョルフソン, コリス&エガーズ(2019)は、「大規模オンライン選択実験(Massive Online Choice Experiment, MOCE)」という手法を考案した。やり方は単純だ——数万人規模の被験者に「1年間、検索エンジンを使えなくなる代わりに、いくらの現金ならその不便を受け入れられるか」といった二択の質問をひたすら繰り返し提示する。
個々の回答にはばらつきがあっても、大量のデータを積み上げれば、それぞれのサービスに対する「補償要求額(compensating variation)」——手放すのにいくら必要かという金額——の分布が浮かび上がる。この分布から、各サービスが利用者にもたらしている経済的価値を、市場価格に頼らずに逆算できる。
「いくらなら買うか」ではなく「いくらなら手放すか」を聞くことで、すでに生活に組み込まれた無料サービスの価値を測る。(Brynjolfsson, Collis & Eggers, 2019)
ここが核心。実験の結果、検索エンジンを1年間失うことへの補償要求額は、被験者の中央値で17,530ドルに達した。地図アプリでも3,648ドル。市場価格はゼロなのに、失う痛みは決してゼロではない——この落差こそが、GDPが取り逃している消費者余剰の正体だ。
この手法を土台に、ブリニョルフソンら(2019)はNBERワーキングペーパーで「GDP-B」という指標を提案した。Bは Benefits(便益)の頭文字だ。GDPが「取引された金額」だけを積み上げるのに対し、GDP-Bは無料のデジタル財がもたらす消費者余剰——利用者が実際に感じている経済的な便益——を別枠で足し合わせる。
GDP-BはGDPを置き換える指標ではない。GDPが測る「生産・取引の規模」と、GDP-Bが測る「体感される豊かさ」は、そもそも違う問いに答えている。GDPだけを見ていると、無料サービスがどれだけ拡大しても経済成長率には現れず、まるで何も起きていないかのように見えてしまう。GDP-Bは、その死角を埋めるための第二の物差しだ。
GDP-Bの枠組みをさらに国際比較へ広げた研究(Brynjolfsson, Collis et al., NBER Working Paper 30288)は、興味深い非対称性を明らかにした。デジタル無料財がもたらす消費者余剰を国別・所得階層別に推計すると、同じ無料サービス(検索・地図・動画共有・メッセージングアプリなど)から得られる便益の大きさは、所得水準にかかわらずかなり近い水準になる。
これは直感に反する。高所得国の富裕層のほうが、あらゆる財から多くの便益を得ていそうなものだ。だが無料のデジタル財に関しては、価格という参入障壁がそもそも存在しないため、所得の低い国・低い階層の利用者ほど、所得に対する相対的な便益(体感される豊かさの増分)が大きくなる。GDPという所得ベースの指標だけを見ていては、この「見えない再分配」効果はまるごと見落とされてしまう。
ここが核心。GDPで測る所得格差はデジタル化が進んでも縮まらない。だがGDP-Bで測る体感される豊かさの格差は、無料のデジタル財によってむしろ縮小している可能性がある。豊かさの格差と、所得の格差は、同じものではない。
GDP-Bという指標自体は、まだ各国の公式統計に組み込まれてはいない。大規模オンライン選択実験は手間もコストもかかり、毎年の統計として継続的に実施するには課題も多い。それでも、この指標が投げかけた問いは重い。GDPが100年近くにわたって「豊かさの代名詞」として扱われてきたのは、他に測る方法がなかったからにすぎない。
デジタル無料財の消費者余剰という、値札のない豊かさを数値化しようとする試みは、GDPという物差しの限界そのものを可視化する。私たちがすでに享受している豊かさの一部は、統計にはまったく現れていない。
GDPの限界という論点は、以前の記事で人口哲学の観点から扱ったこともある。あわせて読むと、「測れないものをどう測るか」という問いの広がりが見えてくる。
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本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
連載の主要記事を1冊に再構成し、書き下ろしを加えたKindle本です。数字では測りにくい豊かさを、所得・時間・関係・自由の視点から読み直します。
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