GDPも、資源あたりの幸福を測るHappy Planet Indexのような効率指標も、結局は「物差しが結論を作る」という限界を抱えている。技術進歩は資源あたりの幸福(効率)を高められる。だがその改善はしばしば消費の増加に食われてしまう。そして「幸福の総量を最大にする最適な人口は?」と問うた瞬間、私たちは経済学を抜け、答えの存在しない哲学の難所に踏み込む。そこで判明するのは、GDPが崇めてきた「量の最大化」もまた、一つの危うい価値選択にすぎなかったということだ。
技術で効率を上げても消費増に相殺されるジェヴォンズのパラドックス、幸福の総量を最大化する総和主義が行き着くパーフィットの「忌まわしい結論」、それを避ける平均主義の弱点、そしてこの分野の「不可能性定理」——理想の理論Theory Xが半世紀見つかっていない理由。最適人口も最適な豊かさも、測定ではなく価値選択だという話。
GDPの限界を補おうと、「資源あたりの幸福」を測るHappy Planet Indexのような効率指標が提案されてきた。技術進歩は、この効率を改善する希望の光に見える。
もっともらしい筋書きはこうだ。品種改良で少ない土地から多くの食料が穫れ、再生可能エネルギーで少ない環境負荷から多くの電力が得られ、デジタル化で物理的資源を使わず多くの効用が届く。技術は、幸福を生む式の分母(資源消費)を小さくする力を持つ。ならば、同じ資源からより多くの幸福を——HPIの分子を、分母を増やさずに大きくできるはずだ。
だが、ここに罠がある。人類全体が地球に与える負荷は、効率だけで決まらない。おおまかにこう分解できる。
# 環境への総負荷のおおまかな分解(IPAT型の考え方)
総負荷 = 人口 × 一人あたり消費 × 資源あたりの負荷(=効率の逆数)
↑ ↑ ↑
増え続ける 増え続ける 技術が下げる
技術が右端の項(効率)をどれだけ改善しても、左の2項——人口と一人あたり消費——が増え続ければ、総負荷は減らないどころか増えうる。効率の改善は、総量の前では一要素にすぎない。そして厄介なことに、効率の改善そのものが、しばしば消費の増加を呼び込んでしまう。
1865年、経済学者ウィリアム・ジェヴォンズは、石炭を燃やす技術の効率が上がったイギリスで、奇妙なことに気づいた。石炭の消費は減らず、むしろ増えていた。
ジェヴォンズのパラドックスと呼ばれるこの現象の論理は単純だ。ある資源を使う効率が上がると、その資源を使うコストが下がる。コストが下がると、より多くの用途で、より多くの人が、その資源を使うようになる。結果として、一単位あたりの消費は減っても、総消費は増える。省エネなエアコンが普及すれば一台あたりの電力は減るが、みんなが気軽に使うようになって総電力は増える、というわけだ。
これは前章の式に効いてくる。技術が「資源あたりの負荷」を下げても、その効率化が「一人あたり消費」を押し上げれば、総負荷の削減は相殺される。効率という分母の改善が、消費という別の項のリバウンドに食われる。技術進歩は、幸福あたりの資源効率を上げる。だがそれが自動的に総負荷を下げ、持続可能な幸福をもたらすとは限らない。効率の改善を総量の削減につなげるには、技術だけでなく、消費と人口に関する社会の選択が要る。そして「一人あたり消費」を語る道は、必然的にもう一つの問いへ通じる——では、人は何人いるのが最適なのか。
「最適な人口サイズ」を真剣に問うと、まず総量という発想に行き着く。幸福の合計がいちばん大きい世界が最善だ、と。だがこの一見まっとうな考えは、哲学者が半世紀格闘してきた泥沼の入り口だった。
幸福の総量を最大化する立場を総和主義(total view)という。一人ひとりの幸福を足し合わせ、その合計が最大の世界を最善とする。GDPが生産量を足し合わせるのと、構造は同じだ。ところが1984年、哲学者デレク・パーフィットが、この立場の行き着く先を容赦なく描いてみせた。「忌まわしい結論(repugnant conclusion)」である。
論理はこうだ。誰もが非常に幸福な世界Aがあるとする。総和主義では、一人あたりの幸福がAより少し低くても、人口が十分に多ければ、合計はAを上回る。これを繰り返していくと、最終的に、誰もが「かろうじて生きるに値する」程度の人生しか送れない、しかし人口が莫大な世界Zにたどり着く。総和では、ZはAより望ましい。膨大な数の、ほとんど幸福でない人生が、少数の至福の人生に勝ってしまう。
# 忌まわしい結論(Parfit 1984)
世界A: 少人数 × 非常に高い幸福 = 総和 小
世界Z: 莫大な人口 × ギリギリの幸福 = 総和 大 ← 総和主義では「Zが優れる」
直感的にはZはAより悪いはずだ。しかし総和主義の論理は、Zを選べと命じる。これはGDP的な「量の最大化」を人口と幸福に適用したときの、論理的な帰結でもある。量を最大化せよという原理は、突き詰めると、薄く引き延ばされた膨大な生を礼賛する。
では総量ではなく平均を最大化すればいい——そう考えたくなる。だが平均主義もまた、別の崖から落ちる。
一人あたりの平均幸福を最大化する立場を平均主義(average view)という。これは忌まわしい結論を避けられる。薄く引き延ばされた世界Zは平均が低いので、選ばれない。ところが平均主義は、直感に反する別の帰結を生む。それ自体は幸福な——生きるに値する——人を新たに加えることが、平均をわずかに下げるという理由だけで「悪いこと」になってしまう。すでに極めて幸福な人々の世界に、少しだけ幸福度の低い(それでも幸福な)人が生まれると、世界は悪化したと評価される。これも受け入れがたい。
そして決定的なのは、これが個別の立場の欠陥ではないことだ。この分野には複数の不可能性定理が知られている。忌まわしい結論を避け、かつ他の最小限もっともらしい条件をすべて満たす人口評価の原理は——存在しない。どれか一つを避けようとすると、倫理と合理性のより根本的な公理を手放さざるを得なくなる。パーフィット自身が探し求めた、すべての条件を満たす理想の理論「Theory X」は、提起から40年を経たいまも、誰も定式化できていない。だからこそ、著名な哲学者の中には、あえて忌まわしい結論を受け入れる者すらいる。それが最も傷の浅い選択かもしれないからだ。
つまり。「最適な人口サイズ」という問いには、少なくとも純粋に論理的・数学的な正解は存在しない。総量を採れば忌まわしい結論に、平均を採れば別の不条理に落ちる。最適人口は、計算で求まる測定問題ではなく、どの不条理を受け入れるかという価値選択なのだ。
こうしてここまでの議論は、GDPそのものの正体へと環を閉じる。
GDPは「量を測り、成長を礼賛する」指標だ。ここまでの議論を経たいま、その意味はより深く見える。GDPが体現しているのは、総和主義そのものだ——生産の合計を最大化せよ、量が増えればそれは善い、という原理。だが総和主義は、人口と幸福に適用したとき忌まわしい結論に至る、危うい価値選択だった。私たちがGDP成長を無条件の善とみなすとき、無意識のうちに「薄く引き延ばされた総量」を礼賛する論理に片足を突っ込んでいる。
ここにSURPLUSのテーマが立ち現れる。GDPは総量という測れるものを礼賛し、幸福の効率も、分配も、持続可能性も、そして「どれだけの人が、どれだけ善く生きるか」という質の問いも、すべて暗闇に置く。HPIは効率という別の一面を照らしたが、それも一つの価値選択にすぎなかった。どの指標も、世界のある側面を測るために、測れない豊かさを犠牲にする。そして最も測りにくく、しかし最も重要な問い——最適な人口、最適な豊かさ、質と量のトレードオフ——には、科学が与えられる答えがない。
結論。技術は幸福あたりの資源効率を高めうる。だが総量はそれを人口と消費に食われ、そして「最適な総量」を問えば哲学の不可能性に突き当たる。「適切な人口サイズ」も「適切な豊かさ」も、測定問題ではなく価値選択である。GDPという単一の物差しの最大化を疑うことは、私たちがどんな未来を——少数の至福か、多数のそこそこか、その間のどこかを——望むのかを、自分たちで選び取る責任を引き受けることでもある。測れる豊かさの外にこそ、本当に問うべきものがある。
補足。人口倫理は活発に議論が続く分野であり、批判的水準功利主義(critical-level utilitarianism)や人格影響説(person-affecting views)など、本記事で触れられなかった多くの立場がある。また本記事は特定の人口政策を推奨・否定するものでは一切なく、「最適人口」という問いが内包する価値判断の不可避性を示すものである。現実の人口問題は倫理だけでなく、人権・経済・環境が絡む複合的な課題であり、単一の原理から政策を導くことはできない。
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