「男のロマン」とも言われる週末の手仕事——乾麺なら10分、レトルトなら15分で済むのに、なぜそばを打ち、カレー粉をスパイスから挽くのか。時給換算すれば明らかに損なこの行動を、経済学は「非合理」と切り捨てられずにいる。
「男はなぜそばを打つのか」という素朴な観察の奥にある、「時間には価格がある」という機会費用の発想だけでは説明のつかない家庭内の手仕事を、なぜ人がやめないのかを解く4つの理論——ゲイリー・ベッカーの家庭内生産理論、労働がその対象への愛着を生むIKEA効果(Norton, Mochon & Ariely, 2012)、自己決定理論の内発的動機、チクセントミハイのフロー体験——を1本にまとめ、手間のかかる自炊が「市場価格の外側」でなぜ得なのかを解説する。
週末、スーパーの乾麺を茹でれば10分で一杯のそばができる。カレーも、レトルトのルーを溶かせば15分で食卓に並ぶ。それなのに、そば粉と水と塩だけで生地をこね、丸め、延ばし、切る作業に半日を費やす人がいる。クミンやコリアンダーを一粒ずつ乾煎りし、すり鉢で潰してカレー粉を配合から作る人がいる。「男のロマン」としてしばしば語られるこの光景は、たしかに男性の趣味として言及されやすい。
経済学の基本的な発想——時間には価格がある、という「機会費用」の考え方——に従えば、この行動はほとんど説明がつかない。仮の数字で単純に置いてみる。
# 市販ルー vs 自家配合スパイスの単純比較(仮定の数値)
市販ルーで作るカレー: 材料費 約300円 + 調理時間 約20分
スパイスから作るカレー: 材料費 約250円 + 調理・焙煎・配合 約150分
節約できた金額 ≈ 50円
追加でかかった時間 ≈ 130分(≈2.2時間)
仮に時給1,200円として評価すると、時間コスト ≈ 2,640円
見かけ上の「損失」 ≈ 2,590円
標準的な消費者理論に従うなら、この選択は「非合理な消費」の一言で片付けられてしまう。だが蕎麦打ち教室やスパイス専門店に通う人は後を絶たず、SNSには週末に香辛料を挽く投稿があふれている。経済学が「非合理」と呼ぶものが、これほど広く・繰り返し観察される現象だとしたら、疑うべきは行動の方ではなく、会計の立て方の方かもしれない。
この謎に理論的な足場を最初に与えたのは、1992年にノーベル経済学賞を受賞したゲイリー・ベッカーだった。ベッカーは1965年の論文「時間配分の理論」で、家庭内消費の見方を書き換えた。人は市場で買った財(スパイス、そば粉)をそのまま消費しているのではなく、それらの財と自分自身の時間を組み合わせて、市場では買えない独自の合成財——ベッカーの言葉で言えばZ財——を家庭という工場の中で生産している、と考えたのだ。
この枠組みに立てば、"カレー"は単一の財ではない。材料を刻み、香りを立たせ、味を調える一連の作業を経て出来上がった「その日の夕食」という、もっと大きな合成財の一部品にすぎない。市場で買えるスパイスの袋そのものには、その合成財を生み出すための投入財としての価値しかない。
市場が売るのは材料や道具まで。自分で手を動かして完成させた経験込みの一皿は、家庭の中でしか生産できない。
賃労働の1時間と、自分の裁量で選んだ趣味の1時間は、同じ60分でも家計にとっての「価格」が違って当然だ、とこの理論は前提を置き直す。
ここが核心。「時給換算で損」という計算は、そばもカレーも"完成品という商品"として評価したときにだけ成り立つ。だが実際に生産されているのは商品ではなく、自分の手で仕上げたという経験を含んだ合成財だ。会計の単位を取り違えれば、黒字の活動も赤字に見える。
この理論的な見立てを実験で裏づけたのが、行動経済学者ダン・アリエリーらの「IKEA効果」研究(Norton, Mochon & Ariely, 2012)だ。参加者にIKEAの収納ボックスや折り紙を自分の手で組み立ててもらい、その完成品にいくらまでなら払ってよいと思うか尋ねる実験を重ねたところ、自分で組み立てた人は、専門の職人が同じ設計図から作った"見た目には同一の完成品"よりも、自分の作品をずっと高く評価した。組み立てに関わらなかった人の評価額は、専門家が値付けした水準とほぼ変わらなかったという。
さらに興味深いのは、この上乗せされた愛着が、どんな手間にも無条件に発生するわけではない、という点だ。組み立てが中途半端に終わったり、失敗して完成しなかったりした場合には、この評価の上乗せはほとんど消えることも報告されている。労働が愛着を生むのは、それが「自分の力でやり遂げた」という有能感の実感につながったときに限られる。そばが無事に茹で上がり、カレーがきちんと食卓に出せる味に仕上がって初めて、手間は"価値"に転化する。
心理学者エドワード・デシとリチャード・ライアンの自己決定理論(Deci & Ryan, 2000)は、人の内発的動機を支える基本的欲求として、自律性(何をどうするか自分で選べる感覚)・有能感(うまくできているという感覚)・関係性(誰かとのつながりの感覚)の3つを挙げる。スパイスの配合比を自分で決め、そば粉の水加減を経験から調整し、出来上がったものを家族や友人にふるまう——手作りの調理は、この3条件を短時間の中に同時に満たしてしまう、数少ない日常行為の一つだ。
さらに、材料を刻む・生地をこねるといった作業は、自分の技量と課題の難しさがちょうど釣り合ったときに人を没入させる「フロー体験」(Csikszentmihalyi, 1990)を起こしやすい。フローの最中、人は時間の経過や自意識をほとんど忘れる。この没入自体が快楽の一種であることは、レトルトを温める15分にはまず起こらない。市場で買った完成品をそのまま消費する行為には、この種の没入が入り込む余地がほとんど残されていない。
SURPLUSでこれまで扱ってきたGDP-B(Brynjolfsson et al., 2019)は、無料のデジタルサービスが生み出す消費者余剰が、対価の支払いを伴わないためにGDPに一切反映されない、という問題を扱ってきた。手打ちそばやスパイスカレーが生む満足も、構造としてはこれとよく似ている。市場で新たな支出が発生するわけでもなく(むしろ外食や総菜への支出を減らす方向に働くことすらある)、それでいて実在する満足を生んでいる、という点で、家庭内生産はGDP統計の外側に広がる、もう一つの「見えない豊かさ」の産地だ。
違いがあるとすれば、GDP-Bが2010年代以降のデジタル経済の中で"発見"された問題であるのに対し、ベッカーの家庭内生産理論は1965年の時点で、すでに同じ盲点を指摘していたという点だろう。自由という、点数に出ない豊かさを扱った記事で見たように、統計に映らない豊かさは、しばしば「選べること」そのものの中にある。スパイスの配合を自分で決める自由もまた、その一形態だ。
ここまでの議論を、「手間をかけるほど幸福になる」という単純な話に一般化するのは早計だ。カーネマンらが1日の生活を時間帯ごとに再構成して感情を測定した研究(Kahneman et al., 2004)では、家事は平均的に評価の低い部類の活動として繰り返し記録されている。趣味としてのそば打ちと、義務としての皿洗いは、同じ「家庭内労働」というカテゴリーに入っていても、体験としてはまったくの別物だ。
両者を分けるのは、まさに自己決定理論が言う自律性の有無だと考えられる。誰かに割り当てられ、選択の余地なく引き受けさせられる家事労働には、IKEA効果もフロー体験も期待しにくい。歴史的に見て、こうした無償の家庭内労働の多くが特定の性別に偏って割り当てられてきたことも忘れてはならない——手間そのものが幸福を生むのではなく、その手間を自分の裁量で選び取れたという事実が、幸福を生む。本稿の観察は「手間をかけるべきだ」という話でも、「家事は誰にとっても楽しいはずだ」という話でもない。時間に余裕のない人にとっては、手間を増やすことがむしろ厚生を損なう場合もある、という留保も付け加えておきたい。
そして「なぜ男はそばを打つのか」という本稿の問い自体、実のところ性別に固有の理由を持たない。Z財・IKEA効果・自己決定理論・フローのどれも、行為者の性別を条件にしていない。同じ理屈は、カレー粉を挽く人にも、パンを一から捏ねる人にも、編み物や家庭菜園に打ち込む人にも、性別を問わず等しく当てはまる。「男の」という枕詞が付きやすいのは、単にそう語られてきた習慣の問題であって、経済学が説明しているメカニズムの側ではない。
※本記事は行動経済学・家庭内生産理論に関する学術的知見の紹介であり、特定のライフスタイルを推奨するものではありません。
本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
連載の主要記事を1冊に再構成し、書き下ろしを加えたKindle本です。数字では測りにくい豊かさを、所得・時間・関係・自由の視点から読み直します。
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