← SURPLUS / 記事一覧へ THE VALUE OF LIFE ・ 見えない豊かさの経済学

GDPが測り損ねた豊かさは、
「命の値段」に表れる。

規制当局が事故防止策のコストを判断するとき、水面下で使っている数字がある——統計的生命価値(VSL)、「死亡リスクをわずかに減らすために、人がいくら払うか」を測った金額だ。この数字の伸び方が、GDPよりも正確に「豊かさの成長」を語っているとしたら。

この記事で手に入るもの

「命の値段」という一見不謹慎な指標がどう計算されているかの仕組み、所得が増える以上のペースでVSLが上昇してきたという経済史の知見、そしてその伸び率の差からGDPが取りこぼす厚生成長を逆算しようという2026年の新しい提案。

01 — 命に、値段はつけられるか

実は、毎日つけられている

この連載の最初の記事は、こんな問いから始まった——「寿命を1年延ばせるなら、年収の何%を差し出すか」。100年前の王様は、どれだけ金を積んでも寿命を買えなかった。今の私たちは、医療や安全にお金を払うことで、命を「買って」いる。

経済学はこの直感を、統計的生命価値(Value of Statistical Life, VSL)という指標に落とし込んできた。個人がある確率の死亡リスクを減らすために、いくら払う意思があるかを調べ、それを1人分の「確実な死」のリスク換算に引き伸ばした金額だ。特定の誰かの命の値段ではなく、1万人にひとりのリスクを減らすのに、1万人が平均でいくら払うかという集団的な意思決定の値段である。

この概念の起源は、経済学者トーマス・シェリングが1968年に書いた論文にさかのぼる。以来、VSLは道路の安全基準、環境規制、医薬品の費用対効果分析など、各国の政府機関が実際の政策判断に使う実務的な数字になった。

不謹慎に聞こえるかもしれない。だがVSLを使わない選択肢は、「命は無限の価値を持つ」という建前のもとで、実質的にリスク対策の優先順位づけを放棄することを意味する。数字にすることは、比較を可能にするための道具である。


02 — 所得より速く、値段は上がった

豊かになるほど、命はより「高く」なる

VSLの経済史をたどると、興味深いパターンが見えてくる。20世紀のアメリカを対象にした研究では、実質所得が伸びる以上のペースで、賃金データから逆算されるVSLが上昇してきたことが報告されている。人は豊かになるほど、命に関わるリスクをより避けたがるようになる——所得の伸びに単純比例するのではなく、それを上回るペースで、だ。

これは直感にも合う。生活必需品にほとんどの所得を使わざるを得ない貧しい状態では、命のリスクを減らすための追加支出に回せる余地は小さい。所得が上がり、生活必需品への支出の割合が下がるほど、残った所得の使い道として「安全」の優先順位は相対的に上がっていく。経済学ではこれを、VSLの所得弾力性が1を上回る——所得が1%増えるとVSLは1%以上増える——という形で表現する。

01

所得が増えるほど、命の優先順位が上がる

必需品が満たされた後の所得は、より多く「安全」に振り向けられる。これがVSLの所得弾力性が1を超える一因とされる。

02

各国の規制当局は、すでにこの数字を使っている

アメリカの環境保護庁や運輸省をはじめ、多くの国の規制当局は、費用便益分析にVSLの推計値を組み込んで、安全規制の妥当性を判断している。


03 — 2026年の提案:GDPの代わりに、命の値段を見る

「命の値段の伸び率」で、豊かさの伸び率を測る

ここに、経済成長論の大家チャールズ・ジョーンズと、フィリップ・トランメルによる2026年の論文が新しい提案を持ち込む。発想の骨格はこうだ——もしVSLが所得以上のペースで伸びるなら、GDPの成長率だけを見ていては、人々が実際に得ている厚生(ウェルビーイング)の成長を過小評価していることになる。

GDPには載らない豊かさで見た消費者余剰のアプローチが、無料のデジタル財という「価格がゼロなのに価値がある」ものを捉えようとしたのに対し、この論文が狙うのはもっと根本的な指標だ。「命の値段」の伸び率そのものを、生涯効用の成長率を映す代理指標として使う。GDPが測るのは「いくら稼いだか」だが、VSLが測ろうとしているのは「その稼ぎで、人はどれだけ人生を守れるようになったか」である。

ここが構造の核心。GDPは所得のフローを測る。VSLは、その所得を使って人が命にどれだけの価値を見出すようになったかを映す。両者の伸び率にギャップがあるなら、そのギャップこそがGDPの測り漏らした厚生成長である、というのがこの提案の骨格だ。


04 — この指標の弱点

命の値段にも、測定の限界がある

VSLを厚生の物差しとして使うことには、正直に言えば大きな留保もつく。VSLの推計値は、調査手法や対象国、対象となるリスクの種類によって大きくばらつくことが、複数の研究のメタ分析で指摘されてきた。同じ国の同じ時期でも、賃金データから逆算する方法とアンケートで直接尋ねる方法とでは、出てくる数字が数倍違うこともある。

さらに、VSLはあくまで「平均的な人が、平均的なリスクにいくら払うか」を測った数字であり、個人差や所得格差、リスクの認知バイアスをならしてしまう。ある人にとっての「命の値段」と、別の人にとってのそれは、本来同じではない。GDPが平均値の裏にある分配を見えなくするのと、構造としてはよく似た弱点である。

強み
所得を超えた厚生の伸びを捉えられる「安全への支払い意思」という、GDPが無視する価値の変化を数値化できる。
弱み
推計手法によるばらつきが大きい調査方法・国・リスクの種類で数倍の差が出ることがあり、単一の「正しい値」を定めにくい。

それでも、この提案の価値は「完璧な代替指標を作った」ことではない。GDPという単一の物差しを疑い、別の角度から豊かさの成長を測り直すという、SURPLUSがここまで繰り返し辿ってきた作業そのものを、経済成長論の中心に近い場所から後押ししている点にある。


05 — 王様が買えなかったもの

豊かさの成長は、価格のついていない場所で起きている

この連載の出発点に戻ろう。ルイ14世 vs 100円の抗生物質で見たのは、王様がどれだけ金を積んでも買えなかったものを、現代人はわずかな出費で手に入れているという事実だった。VSLの経済史が示すのは、その「買えるようになった安全」の価値そのものが、所得の伸び以上のペースで大きくなり続けているという話である。

GDPは、市場で取引された金額の合計としては正確だ。だが取引の背後で、人が「どれだけのリスクを、どれだけの重みで避けたがるようになったか」までは映さない。命の値段という、字面だけ見ると冷たい指標が、実は誰よりも人間くさい価値の変化——豊かになるほど、私たちは自分の人生をより大切に扱うようになる、という変化——を記録している。

ここが結論。豊かさの成長を測る物差しは、GDPだけではない。何にいくら払われているかではなく、何に、どれだけ多くの重みが置かれるようになったか——その変化率にこそ、数字に表れにくい豊かさの伸びが隠れている。


06 — 出典

参考文献

本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。

01
Trammell, P. & Jones, C. I. (2026)When GDP Misleads: Inferring Living Standards from the Value of a Statistical Life. NBER Working Paper w35382. 統計的生命価値の伸び率を生涯効用の成長率の代理指標として使う提案。本記事セクション03の骨格。
02
Schelling, T. C. (1968)The Life You Save May Be Your Own. 統計的生命価値という概念の理論的起点とされる古典的論考。
03
Viscusi, W. K. & Aldy, J. E. (2003)The Value of a Statistical Life: A Critical Review of Market Estimates Throughout the World. Journal of Risk and Uncertainty 27(1). VSL推計値が調査手法・国・リスクの種類で大きくばらつくことを示したメタ分析。本記事セクション04の根拠。
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