「格差」と言えば、いつも資産の話だ。上位1%が富の何割を握っているか。だが、私たちが実際に毎日「感じている豊かさ」の格差は、いま歴史上もっとも縮んでいる——検索・地図・SNS・動画という、値札のつかない道具のせいで。前回(ルイ14世 vs 100円の抗生物質)で見た「消費者余剰」を、現代に持ち込むとどうなるかの話。
資産の格差と「実感の格差」はまったく別物だという視点。世界13カ国・4万人を対象にしたブリニョルフソンらの大規模実験が暴いた、無料デジタルサービスの本当の価値。そしてお金持ちのスーパーカーより、あなたのスマホの方が余剰は大きいという、少し救いのある逆説。
格差を語るとき、私たちはほぼ必ず「資産」や「収入」を数える。上位1%が全体の何割を持っているか。この数字は、確かに開いている。
だが、ここには測り忘れているものがある。人が実際に「受け取っている満足」だ。年収1億円の人と年収300万円の人がいたとして、両者の資産差は30倍以上。では、両者が「地図アプリで道に迷わずに済む便利さ」から受け取っている満足は、30倍違うだろうか?
違わない。むしろ、ほとんど同じだ。Googleマップは、大富豪にも、フリーターにも、まったく同じ機能を無料で提供する。この「同じものをタダで受け取っている」という事実が、資産の議論からはすっぽり抜け落ちている。
問いはこうだ。資産の格差が開き続ける一方で、「実感している豊かさ」の格差は、実は縮んでいるのではないか? そしてそれは、測れるのか?
この「タダの満足」を数字にしようとしたのが、MIT/スタンフォードのエリック・ブリニョルフソンらのチームだ。彼らの2025年の論文『The Digital Welfare of Nations』は、世界13カ国・約4万人を対象にした、ちょっと変わった実験をした。
方法はシンプルで、そして巧妙だ。人々にこう尋ねる。
値段を聞くのではない。「無料で使えているそれを、あえて手放すとしたら、代わりにいくらの現金が必要か」を聞く。これは前回の留保価格の裏返し——その人にとっての本当の価値が、現金という形で表に出てくる。
検索エンジンを1年手放すのに必要な金額は、多くの人で数十万円規模。地図、SNS、動画サイトも同様に、人々は「タダで使っているくせに、手放すには大金を要求する」。この差額こそ、財布を通らずに受け取っている消費者余剰だ。
ここが論文の核心だ。無料デジタルサービスから受け取る余剰は、低所得者や発展途上国の人々ほど、収入に対する比率だけでなく、絶対額としても大きい傾向が見られた。同じYouTubeが、富裕層にとってより貧しい人にとっての方が、人生に占める価値が大きい。
ここで、少し意地悪な比較をしてみよう。数億円のスーパーカーを買った富豪の満足と、一般人がスマホで毎日動画や地図を使う満足。総量として、どちらが大きいか。
直感では前者だ。数億円なのだから。だが「余剰」——つまり支払った額を超えて受け取っている価値——で見ると、話は逆転する。
これが「格差のウソ」だ。資産のグラフは開き続ける。だが実感しているウェルビーイングのグラフは、無料デジタルサービスによって猛烈に平準化されている。歴史上、庶民と富豪が「これほど同じ道具を使った時代」はなかった。
これほど巨大な価値が生まれているのに、国の経済統計にはほとんど現れない。理由は単純で、GDPは「お金が動いた額」しか数えないからだ。
あなたがGoogleマップを使っても、1円も課金されない。だからGDPの計算上、その取引は「起きなかったこと」になる。前回のノードハウスの「光の価格」と同じ構図だ——価値が下がって無料に近づくほど、統計上は存在感が消えていく。
# 同じ「地図で迷わない便利さ」の記録され方
紙の地図を500円で購入 GDP: +500円 ← 数えられる
無料地図アプリを毎日使う GDP: 0円 ← 消える(実際の価値は桁違いに上なのに)
この欠陥を正そうとする試みが、ブリニョルフソンらの提唱する新指標 GDP-B(Bは Benefit=便益)だ。無料サービスがもたらす消費者余剰を測って、GDPに足し戻す。「人間が実感している実質的な豊かさ」を数値化しようとする、現在進行形の挑戦である。
資産の格差は、これからも開くかもしれない。だがそれは「豊かさの格差」の半分でしかない。もう半分——日々の実感としてのウェルビーイングは、値札のつかない道具によって、静かに、しかし力強く埋められている。
前回の王様の話とつなげれば、こうなる。ルイ14世が全財産でも買えなかった「痛みの解消」を、現代人は100円で手にした。そして今、その現代人の中の貧しい側にいる人ほど、無料の道具から大きな余剰を受け取っている。文明は、豊かさを上に積むだけでなく、下に向かって配ってもいる。
次に地図アプリを開くとき。あなたは、100年前なら地理学者を雇わなければ得られなかった情報を、0円で受け取っている。それはGDPには乗らない。あなたの資産も1円も増えない。それでも——あなたの人生は、確実に豊かになっている。
次回からは、この「生む側」の話に踏み込む。自動化やAIが生み出す果実を、誰が受け取り、どう分配すべきか——まずは、ビル・ゲイツが火をつけて世界中を巻き込んだ 「ロボットに課税せよ」 という論争から。
本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
連載の主要記事を1冊に再構成し、書き下ろしを加えたKindle本です。数字では測りにくい豊かさを、所得・時間・関係・自由の視点から読み直します。
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