GDPが増えているのに、実は豊かさが減っている場合がある。逆に、GDPが減っているのに、豊かさは増えている場合もある。この2つのケースは、一見同じ「ズレ」に見えて、実はまったく対称ではない。
GDPを作った本人であるサイモン・クズネッツが1934年に議会へ突きつけていた警告、ハーマン・デイリーの「不経済成長」概念とバスティアの「破れた窓」の寓話が示すGDP↑・豊かさ↓のケース、そして無料のデジタル財や自発的な労働時間の削減が示す豊かさ↑・GDP↓のケース——この2つを並べたときに見えてくる、「非対称性のテーゼ」を追いかける。
国民所得の測定という仕事を体系化し、後のGDP(国内総生産)の基礎を築いたサイモン・クズネッツ自身が、1934年にアメリカ議会へ提出した報告書の中で、すでに強い留保をつけていた。「国民の福祉(welfare)は、国民所得の測定からはほとんど推し量ることができない」——クズネッツはそう明言し、所得を得るための労苦の不快さや、所得の分配のされ方までは、この指標が捉えられないことを指摘していた。
だが1944年のブレトンウッズ会議以降、GDPは世界標準の経済指標として定着し、クズネッツ自身の留保は次第に忘れられていった。GDP-Bを扱った記事で見た「デジタル無料財の消費者余剰がGDPに映らない」という話も、実はこの70年以上前の警告の延長線上にある。
経済学者ハーマン・デイリーは、経済が「空っぽの世界」から「満杯の世界」へと成長するにつれ、渋滞・公害・犯罪といった負の副産物に対処するための「防御的支出」が増えていくと指摘した。ここに、GDP計算の奇妙な性質がある。公害対策費も、犯罪への備えの支出も、渋滞で失われた時間を埋め合わせる支出も、すべてGDPには加算される側であり、差し引かれることはない。デイリーはこれを「不経済成長(uneconomic growth)」と呼び、負の側面を取り除くための支出そのものが、あたかも生産の成果であるかのように計上される矛盾を指摘した。
この構造をもっと直接的に示す寓話が、フランスの経済学者フレデリック・バスティアが1850年に書いた「破れた窓」だ。ある店のガラスが割られると、ガラス職人に修理代が支払われ、その分だけGDPは増える。だが割れる前の窓は、既に価値のあるものだった。修理は失われた価値を取り戻しているだけで、新しい富を生み出したわけではない。台風・地震などの自然災害の後、復興需要が「経済にとってのプラス」であるかのように語られることがあるが、破壊されなければ元々使わずに済んだ支出だという点は変わらない。
延命治療と緩和ケアの逆説を扱った記事で見た通り、攻撃的な治療の増加は医療費というGDPの一部を押し上げるが、必ずしも本人のQOLを高めるとは限らない。
大気汚染防止装置、渋滞緩和のためのインフラ投資、犯罪対策の警備費——いずれも「問題が起きたこと」自体が支出の前提になっており、問題が最初からなければ必要のなかった費用だ。
バスティアの寓話どおり、災害復旧・事故の後始末・盗難の穴埋めは、GDPの数字上は経済活動として計上されるが、失われた分を取り戻しているに過ぎない。
逆のケースもある。GDP-Bを扱った記事で見た通り、検索エンジンやデジタル地図といった無料のデジタル財は、多くの利用者にとって年間数千〜1万ドル超の価値があると推計されながら、価格がゼロであるためにGDPにはまったく計上されない。無料化・効率化によって同じ便益をより少ない支出で得られるようになるほど、皮肉なことにGDPの数字は伸び悩む。
失業と幸福を扱った記事で見た「奪われた無職と選んだ無職では符号が逆転する」という構図も、ここにつながる。自ら望んで早期退職や労働時間の削減を選んだ人にとって、それは所得というGDPへの寄与を減らす一方で、本人の生活満足度をむしろ高めることがある。時間貧困を扱った記事で見た家庭内労働や無償のケア労働も、GDP統計の外側で豊かさを生み出し続けている典型例だ。
ここまでを並べると、1つの非対称な構造が見えてくる。GDP↑・豊かさ↓のケースは、ほぼ常に望ましくない。防御的支出も破れた窓の修理代も、「問題が起きなければ発生しなかった」という点で共通しており、それが増えること自体を喜ぶべき理由はない。
一方、豊かさ↑・GDP↓のケースは、原則として望ましい——ただし、無条件にではない。無料のデジタル財による便益の拡大は、素直に歓迎できる豊かさの増加だ。だが労働時間の削減については、それが本人が選んだ結果なのか、奪われた結果なのかで評価が正反対に反転する。早期退職やFIREのように自ら選んだ場合は豊かさの増加だが、失業のように強いられた場合は、GDPが減るのと同時に本人の豊かさも大きく損なわれる。
ここが核心。GDPが上がって豊かさが下がるとき、それはほとんど疑いなく悪いことだ。だがGDPが下がって豊かさが上がるとき、その評価は「本人が選んだかどうか」という、GDPには決して映らないもう1つの変数にかかっている。
統計的生命価値を扱った記事で見た通り、「命の値段」のような一見冷徹な指標も、限られた資源をどこに配分すべきかを考えるための道具にすぎない。GDPも同様に、それ自体が善悪を語る指標ではなく、何を測り、何を測り損ねているかを常に問い直す必要がある物差しだ。
この非対称性のテーゼが示すのは、「GDPを増やすこと」を無条件の目標に据えるべきではないし、逆に「GDPが減ること」を無条件に恐れるべきでもない、という単純だが見落とされがちな教訓だ。問うべきは、その増減の裏側で、誰かが選んだ結果なのか、それとも誰かに強いられた結果なのか、という一点である。
本記事の非対称性のテーゼは、あくまで概念的な整理であり、厳密な統計的検証を経た法則ではない。防御的支出の規模や、無料デジタル財の便益推計には、測定方法によって大きな幅がある。また、GDPの成長自体が雇用・税収・公共サービスの原資となり、豊かさを支える側面も現実には存在する——GDPそのものを軽視してよいという主張ではない。
ケインズが指摘したように、深刻な不況下で失業が蔓延している局面では、「破れた窓」型の支出(公共投資による需要創出)がむしろ経済全体を下支えする場合もある。文脈を無視して単純な善悪の図式に当てはめることは避けるべきだ。
※本記事は経済学の概念整理の紹介であり、特定の経済政策・財政運営方針を推奨するものではありません。
本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
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