← SURPLUS / 記事一覧へ THE ECONOMICS OF NAMING ・ 見えない豊かさの経済学

「名前がつく前」は、存在しなかった

位置財、GDP-B、ikigai、emodiversity——幸福研究が扱う現象の多くは、名前が付いた瞬間から、はじめて社会の中で「存在」し始めた。ベンサムの快楽計算から現代の研究まで、250年近い命名の歴史をたどると、この連載自体が続けてきた作業の意味が見えてくる。

この記事で手に入るもの

幸福・厚生経済学の主要概念が命名されてきた1789年から現在までの年表、GDP-Bやikigaiのように名前が付いたことで政策・国際的な認知を獲得した事例、そして「まだ名前がない」がゆえに測定にも政策議論にも上がってこない価値の存在——名づけという行為が持つ、地味だが強力な経済的効果を追いかける。

01 — 名づけという行為

名前がないものは、扱いようがない

法律の世界には、こんな性質がある。ある行為に「傷害」「窃盗」という名前(罪名)が付いて初めて、それは取り締まりの対象になる。名前のない行為は、どれだけ実害があっても、制度の外側に置かれたままになる。これは笑い話のネタとしてもよく使われる構造だが、実は幸福・厚生経済学の歴史そのものが、同じ論理をたどってきた。

「幸福」や「豊かさ」という漠然とした感覚のうち、研究者が特定の一部を切り出し、名前を与えた瞬間——その部分だけが、測定・比較・政策論争の対象として扱えるようになる。名前のない残りの部分は、依然として「見えない」ままだ。この連載(SURPLUS)が扱ってきたのは、ほとんどがこの「名づけ」の歴史でもある。


02 — 250年の年表

幸福研究は、こうして「名前」を積み重ねてきた

この連載でこれまで紹介してきた研究のうち、年代がはっきりしている「命名」の瞬間だけを抜き出して並べると、18世紀末から現在までの約250年にわたる、ゆるやかな蓄積の線が見えてくる。

1789
快楽計算(felicific calculus)ベンサムが、あらゆる快楽・苦痛を単一の尺度で計量するという発想に、初めて具体的な手続きの名前を与えた。
1934
GDPの限界クズネッツが議会報告書の中で、国民所得の集計が「国民の福祉」そのものではないと、統計指標そのものに留保をつけた。
1976
位置財(positional goods)ハーシュが、他人との相対的な位置でしか価値が決まらない財に、名前を与えた。
1993
ピーク・エンドの法則カーネマンらが、経験の記憶がピークと終わりに支配されるという規則性に、扱いやすい名前を与えた。
2000
選択過多(choice overload)アイエンガーとレッパーのジャム実験が、「選択肢が多いほど良い」という前提に反例の名前をつけた。
2008
生きがい(ikigai)大崎コホート研究が、日本語の日常語だった「生きがい」に、死亡リスクという疫学的な数値の裏付けを与えた。
2013
cheater's highルーディらが、不正のあとに訪れる説明のつかない高揚感に、名前を与えた。
2014
感情の多様性(emodiversity)クオイドバックらが、ポジティブ一辺倒ではない感情の幅そのものに、健康を予測する変数としての名前を与えた。
2019
GDP-Bブリニョルフソンらが、無料デジタル財の消費者余剰という、GDPに映らない価値のかたまりに名前を与えた。
2022
心理的に豊かな人生大石とウェストゲートが、幸福でも意味でもない「第三の良い人生」に名前を与えた。

※ このリストは本記事のために選んだ10の代表例であり、幸福研究で命名されてきた概念を網羅したものではない。


03 — 名前が政策を動かす

名前が付いた瞬間、それは統計や政策の議題になり得る

名づけは、単なる整理整頓ではない。名前が付くことで、その現象は「測定してよいもの」「政策論争の当事者になれるもの」として扱われ始める。GDPの限界とGDP-Bを扱った記事で見たように、ブリニョルフソンらが無料デジタル財の消費者余剰に「GDP-B」という具体的な指標名を与えたことで、この価値は「GDPでは測れないが、別の指標なら測れるもの」として、経済統計の議論の土俵に乗った。

同じことは「生きがい(ikigai)」にも起きた。日本語の日常語に過ぎなかったこの言葉は、大崎コホート研究をはじめとする疫学研究によって「生きがいの有無が全死因死亡リスクを左右する変数」として実証され、国際的な学術用語として輸出されるに至った。名前は変わらないまま、それが指す現象の社会的な地位が変わった、という事例だ。

ここが核心。現象そのものは、名前が付く前からずっとそこにあった。変わったのは現象の実体ではなく、「それについて話し合い、測定し、政策の議題にできるかどうか」という、制度との接続可能性の方だ。


04 — まだ名前がない豊かさ

名前がないものは、依然として測定から漏れ続ける

この論理を裏返すと、まだ十分に名前が定着していない価値は、いまも制度の外側に置かれ続けているはずだ。豊かさとGDPが逆に動くときを扱った記事で紹介したダリーの「不経済成長」という指摘のように、環境破壊への対処支出がGDPに加算されてしまう矛盾は、それを正確に言い当てる指標名が政策の主流に定着していないぶん、いまだに是正されにくい。

デジタルプラットフォームの世界で言えば、「費やされた時間の量(time spent)」には具体的な指標名と計測の仕組みがすでにあるが、「価値があったと感じられる時間の質(time well spent)」の方は、まだ業界標準と呼べるほどの共通の測定名を持たない。名前を持つ側だけが最適化の対象になる、という非対称性がここにも表れている。


05 — 名づけの副作用

名前をつけることは、常に良いことだとは限らない

ただし、名づけには裏面もある。社会学の「ラベリング理論」が指摘してきたように、ある行動や状態に名前(診断名やレッテル)を与えることは、当事者がその名前の通りに振る舞うようになる、という副作用を伴うことがある。「幸福の中身は年代で変わる」を扱った記事で見た通り、幸福研究自体、時代や文化によって何を測定対象として切り出すか(=何に名前を与えるか)の基準が揺れ動いてきた。

名前を与える作業そのものが、研究者や制度の側の関心・都合を反映した恣意的な線引きである可能性は、常に残る。「名前が付いたから重要だ」と「名前がまだないから重要ではない」を、そのまま鵜呑みにはできない。


06 — この連載がやってきたこと

SURPLUSは、名前のない豊かさに、名前を探す作業だった

こうして振り返ると、「見えない豊かさの経済学」と名乗るこの連載自体が、GDPという既存の名前からこぼれ落ちた価値に、既存の研究が与えた名前を借りて光を当て直す作業を続けてきたことに気づく。幸福は「降ってくるもの」だったを扱った記事で見た「幸福」という言葉自体の意味変化も、「幸せ」の意味は国によって違っていたを扱った記事で見た文化差も、根っこにあるのは同じ営みだ——広く漠然とした感覚のどの部分を切り出し、名前を与えて、扱えるものにするか、という選択の積み重ねである。

※本記事は経済学・心理学における概念形成の歴史を紹介する読み物であり、個々の学術用語の定義や優先順位について特定の立場を主張するものではありません。


07 — 出典

参考文献

本記事で年表として引用した文献。年は各概念が学術的に命名・実証された年に基づく。

01
Bentham, J.An Introduction to the Principles of Morals and Legislation.(1789)。快楽計算(felicific calculus)の提唱。本記事セクション02の出典。
02
Kuznets, S.National Income, 1929-1932.(1934、米国上院への報告書)。GDPの限界への留保。本記事セクション02の出典。
03
Hirsch, F.Social Limits to Growth.(1976)。位置財(positional goods)の提唱。本記事セクション02の出典。
04
Kahneman, D. et al.冷水実験(1993)。ピーク・エンドの法則の提唱。本記事セクション02の出典。
05
Iyengar, S. & Lepper, M.ジャム実験(2000, Journal of Personality and Social Psychology)。選択過多の提示。本記事セクション02の出典。
06
Sone, T., Nakaya, N., Ohmori, K. et al.大崎コホート研究(2008, Psychosomatic Medicine)。生きがい(ikigai)の疫学的実証。本記事セクション02・03の出典。
07
Ruedy, N. E. et al.(2013, Journal of Personality and Social Psychology)。cheater's highの提唱。本記事セクション02の出典。
08
Quoidbach, J. et al.(2014)。感情の多様性(emodiversity)の提唱。本記事セクション02の出典。
09
Brynjolfsson, E. et al.(2019, NBER)。GDP-Bの提唱。本記事セクション02・03の出典。
10
Oishi, S. & Westgate, E. C.(2022, Perspectives on Psychological Science)。心理的に豊かな人生(psychologically rich life)の提唱。本記事セクション02の出典。
11
Daly, H.Beyond Growth: The Economics of Sustainable Development.(1996)。不経済成長の指摘。本記事セクション04の出典。
SURPLUS BOOKS VOL.1

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