「幸福を追い求める」という言い回しに、私たちは何の違和感も持たない。だが人類の歴史のほとんどを通じて、幸福は追い求めるものではなく、運よく降ってくるものだった。ある1つの単語の語源をたどるだけで、それが見えてくる。
ダリン・マクマホンが解き明かした「あらゆるインド・ヨーロッパ語族で、幸福は運の同根語だった」という言語的事実、古代ギリシアのソロンが遺した「死ぬまで誰も幸福と呼ぶな」という警句、オオイシらが30カ国・170年分の辞書を分析して示した「運」から「内面の感情」への意味の移動、そしてブルックナーが指摘する「幸福の義務化」——運→権利→義務という、幸福の3000年史をたどる。
歴史家ダリン・マクマホンは、著書『Happiness: A History』(2006)の中で、ある印象的な言語的事実を指摘している。例外なく、あらゆるインド・ヨーロッパ語族の言語において、「幸福」を意味する単語は、「運」を意味する単語と同じ語源を持つという事実だ。
英語の"happy"も例外ではない。この単語は14世紀後半、"hap"(偶然・運・巡り合わせ)という語に、形容詞化する接尾辞"-y"がついてできた。つまり元々の意味は「幸運に恵まれている」「有利な巡り合わせにある」という、本人の努力や内面とは無関係な、外側からやってくる状態を指していた。
この「幸福=運」という捉え方を象徴するのが、古代ギリシアの立法者ソロンの逸話だ。リディアの王クロイソスが、当時世界随一の富を誇る自分こそ最も幸福な人間だろうとソロンに問うたとき、ソロンはこう答えたと伝えられている。「死ぬまで誰も、幸福だとは呼ぶな。ただ運が良かったとは言えても」。
運は生きている限りいつ反転するかわからない——だから、人生の最後まで見届けなければ、その人が本当に幸福だったかどうかは判断できない、という考え方だ。幸福は本人の意志や能力で確保できるものではなく、最後まで運に委ねられている、という前提がここには色濃く表れている。
この「運としての幸福」という捉え方が、いつ・どのように変化していったのかを実証的に検証したのが、オオイシ、グラハム、ケセビル&ガリニャ(2013)による研究だ。彼らは30カ国の辞書における「幸福」の定義を横断的に分析すると同時に、1850年代から現代に至るまでのウェブスター英語辞典の定義の変遷を追跡した。
その結果、多くの文化・時代を通じて、幸福は「幸運」や「恵まれた外的境遇」として定義されるのが最も一般的だった。だがアメリカ英語においては、この「運・外的条件」という定義が、次第に「望ましい内面の感情状態」という定義に置き換えられていった。目標の達成や自己実現に由来する、内側から生まれる感情としての幸福——特に米国のプロテスタント的な文脈の中で、この転換が進んだと分析されている。
ここが最初の転換点。幸福は、外からやってくる「運」から、内側で獲得する「感情状態」へと、辞書の定義そのものが書き換えられていった。この転換は、幸福を"追求できるもの"へと変える、決定的な一歩だった。
幸福が「運」から「内面の感情」に変わり、努力によって獲得できるものだと考えられ始めると、次に起きたのは、それを獲得「しなければならない」という圧力だった。フランスの哲学者パスカル・ブルックナーは、著書『Perpetual Euphoria(邦題: 永遠の至福)』(2011)の中で、現代社会において幸福はもはや単なる可能性ではなく、果たすべき義務になったと論じる。
ブルックナーは、私たちが「自分の幸不幸は自分の責任である」「幸福は努力によって生産できる」という2つの幻想に囚われ、時間・財産・健康・心の平穏までも犠牲にして、地上の楽園を追い求めていると指摘する。その処方箋として彼が提案するのは、幸福を再び「呼びかけても来ない、恩寵と運によってのみ訪れる、儚い贈り物」として受け入れ直すことだった。
ここが核心。幸福は「運」として始まり、啓蒙以降「権利」として語られるようになり、20世紀後半には「達成すべき義務」にまでなった。同じ1つの言葉が、3000年かけてこれほど違う重さを背負わされてきたことになる。
幸福介入研究の総括を扱った記事で見た通り、「幸福の40%は本人の行動次第」というライアボミアスキーの円グラフは、提唱者自身によって大きく上方修正され、事前登録実験で生き残った幸福術はごくわずかだった。この結果は、「幸福は努力で生産できる」というブルックナーの言う幻想そのものへの、実証研究側からの応答としても読める。
経験する自己と記憶する自己を扱った記事や時間貧困を扱った記事で見てきた通り、SURPLUSがこれまで追ってきた「見えない豊かさ」の多くは、本人の意志だけでは動かせない構造——時間の使い方、比較の対象、環境の設計——に左右されるものだった。幸福が本来「運」の同根語であったという事実は、努力ではどうにもならない部分が確かに存在するという、忘れられがちな前提を思い出させてくれる。
言葉の語源が「運」だったという事実は、興味深い歴史的傍証ではあるが、それ自体が「幸福は努力で変えられない」ことの科学的証明にはならない。実際、幸福感の個人差の一部は、生活習慣や人間関係への投資によって動かせることも、他の実証研究(40%円グラフの記事参照)で示されている。
また、マクマホンの歴史叙述もオオイシらの辞書分析も、それぞれ特定の資料(主に西洋の文献・英語圏の辞書)に基づいた1つの解釈であり、非西洋圏の幸福観の歴史をすべて代表するものではない。
※本記事は幸福概念の歴史・言語学的研究の紹介であり、特定の人生観・宗教観を推奨するものではありません。
本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
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