標準的な経済理論では、退職前後で消費水準は一定に保たれるはずだった。ところが実際のデータは逆を示す。支出は退職を境に減り、資産は何年経っても思うように減らない。「老後2000万円問題」の裏側にある、もう一つの——そして測定されにくい——不思議を追いかける。
Ameriks, Briggs, Caplin, Shapiro & Tonetti(2020/2024)が定式化した「退職消費パズル」と「資産保有パズル」という2つの謎、EBRI(2026)の縦断データが示す資産を使い切れない退職者の実態、そしてBlanchett(2024, 2025)の心理会計理論——同じ価値のお金でも、出どころのラベルで消費率がほぼ倍違うという発見。貯めたのに使えないという現象を、感情論ではなく実証研究だけで追いかける。
生涯にわたる消費計画を扱うライフサイクル仮説では、人は一生分の所得と資産を見積もり、それを引退後も含めてできるだけ滑らかに使い切ろうとすると仮定する。所得が途絶える退職という出来事自体は、この理論にとって特別な意味を持たない——貯蓄が十分にあるなら、退職前後で消費水準が急に変わる理由はないはずだ。
ところが2000年代初頭から、この予測は繰り返し裏切られてきた。ハード&ロウェダー(2003)が指摘して以来、退職を境に支出が目に見えて落ち込むという観察は「退職消費パズル」と呼ばれてきた。さらに2020年、アメリクス、ブリッグス、キャプリン、シャピロ&トネッティは個人の家計データを詳細に分析し、これがもう一段複雑な構造を持つことを示した。支出が減るだけでなく、資産そのものが理論の予測ほど減っていかない——彼らはこれを「退職貯蓄パズル」と呼び、消費パズルと合わせて「退職パズル」の対として定式化した。
EBRIが1992〜2022年の健康・退職調査(HRS)パネルを使って行った分析は、この「資産保有パズル」の輪郭をより具体的に描き出す。退職後1〜2年目から21〜22年目にかけて、世帯の純金融資産の中央値は、低資産層で43%、中資産層で30%、高資産層で42%減少していた——理論どおり、資産は確かに減ってはいる。
だが平均や中央値の裏には、大きなばらつきが隠れている。低資産層の37%は、21〜22年後もなお資産の80%以上を保持したままだった。中・高資産層でも4割前後が同様だ。生活に困っていないから使わないのか、それとも使えない理由があるのか——ここに、単純な「倹約家だから」では説明できない構造がある。
ここが最初の手がかり。資産を使い切れない退職者は少数派の例外ではない。むしろ「資産をほぼ減らさない」層が無視できない割合で存在し、平均的な取り崩しペースそのものを押し下げている。
この現象を長らく説明してきたのは「遺産動機」——資産を子や孫に残したいという意図——だった。だが近年の消費者調査は、この説明だけでは足りないことを示している。ある退職者向け意思決定調査では、回答者の38%が「資産の目減りを避けたいから」という理由で、望んでいた額より支出を切り詰めていたと答え、70%が「資産の元本を減らさないことが非常に重要」と回答した。
切り詰めの動機として多く挙げられたのは、インフレ・市場変動・医療費への不安であり、遺産を残す意図は主要な理由ではなかった。さらに、55歳以上のうち取り崩し戦略を持っている人はわずか29%、必須最低引き出し額(RMD)への対応方針を持つ人は14%にとどまる。つまり多くの人は、資産をどう使うかの計画がないまま、漠然とした将来不安を理由に手をつけずにいる。
ではなぜ、漠然とした不安がここまで強い力を持つのか。ブランシェット(2024)は、退職消費パズルを心理会計(mental accounting)の観点から説明する。1992〜2018年のHRSパネルデータを年齢・年齢の二乗を用いた回帰分析にかけた結果、退職者の資産取り崩しパターンには明確な個人差があり、それは裁量的支出への心理的な許容度という、単なる経済合理性では説明できない要因で説明できると報告した。
この心理会計の効果は、2025年の続報でより鮮明な数字として示された。ブランシェットは、退職者が年金・年金保険・公的年金といった「生涯保証所得」からは平均で約80%を消費する一方、それ以外の貯蓄や資産からはおよそ50%しか消費しないことを発見した。経済学的にはどちらも同じ「使えるお金」であり、生涯にわたって滑らかに消費されるべき対象だ。だが心の会計簿の上では、「収入」というラベルが貼られたお金と「元本」というラベルが貼られたお金は、まったく別の引き出しに入っている。
ここが核心。退職消費パズルの正体は、貯蓄を「元本」として神聖視し、収入としてラベル付けされたお金しか気安く使えないという心の会計ルールだった。資産を年金化する、あるいは自動送金で定期的な「収入」に見せかけるだけで、同じ額のお金でも心理的に使いやすくなる——ブランシェットの研究はこの設計上の含意を示している。
この現象がSURPLUSにとって重要なのは、それが統計上ほとんど「問題」として見えない点にある。資産を使い切れずに亡くなることは、家計調査の上では単に「資産が多く残った」という結果にしかならない。GDPにも計上されず、遺族の相続資産としてむしろプラスに見えることすらある。だが本人の生涯効用という観点で見れば、お金で時間を買う記事や時間貧困を扱った記事で見てきたのと同じ構造がここにもある——使われることで初めて生まれたはずの経験や余裕が、恐怖という税金によって未実現のまま消えていく。
これはGDP-Bを扱った記事で見た「デジタル無料財の消費者余剰がGDPに映らない」という話の、いわば裏返しだ。GDP-Bは「お金を払っていないのに得ている豊かさ」を可視化しようとする試みだったが、退職消費パズルが示すのは「お金は確かにあるのに、恐怖によって豊かさに変換されないまま死蔵される」という、もう一つの見えない機会損失である。
ここまでの研究が示すのは、資産の取り崩しが遅れる背景に心理会計というメカニズムがある、ということまでだ。長寿リスク(想定より長生きした場合に資産が尽きる可能性)や将来の医療費増大は、現実に存在するリスクであり、慎重な資産保有そのものは非合理ではない。EBRIのデータも、資産中央値自体はきちんと減少していることを示しており、「退職者は誰もお金を使わない」という単純化は正確ではない。
それでも、38%が「望んでいた額より切り詰めた」と回答し、その理由の多くが遺産動機ではなく漠然とした不安だったという事実は、少なくとも一部の退職者にとって、資産の使い控えが本人の意図した豊かさを下回っている可能性を示している。どの水準の取り崩しが「適切」かは、本人の価値観・健康状態・家族構成によって異なり、本記事が扱う実証研究の範囲を超える個別の意思決定の問題である。
※本記事は退職期の消費・資産行動に関する学術研究の紹介であり、特定の資産運用・取り崩し方法を推奨するものではありません。個々の資産計画は、税制・健康状態・家族構成等を踏まえ、専門家に相談のうえご判断ください。
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