日本人は他人との距離を狭く取る国民なのか。実験室で測ると、答えは逆だった——日本人はドイツ人より広い距離を求める。にもかかわらず毎朝、混雑率200%の車両に耐えている。139人の通勤者から唾液を採った研究は、この矛盾に思いがけない答えを出した。車両の混雑度は、どのストレス指標にも効いていなかったのだ。
42カ国8,943人が実測した「快適な対人距離」の中身と、それが国によってほぼ2倍違うという事実。通勤電車で唾液コルチゾールを採った実験が示した、車両の混雑度ではなく隣席の距離だけがストレスを動かすという結果。そして両側の扁桃体を失った患者にパーソナルスペースがまったく存在しなかったという症例まで。物理的な距離が、どの経路で精神に届くのかを追う。
毎朝の通勤電車で、見知らぬ他人と体が触れる。日本の都市に住む人は、これを何十年も続けている。ここから「日本人は他人との距離に鈍感な国民だ」という説明を思いつきたくなる。
ところが実験室で測ると、結果は正反対だ。Sicorello, Stevanov, Ashida & Hecht が2019年に発表した日独比較研究では、標準化された課題で好ましい対人距離を調整させたところ、日本人参加者はドイツ人参加者より広い距離を好んだ。東アジア圏の人々が欧米圏より大きな対人距離を取るという先行知見とも一致する。
なお同研究は「東アジアの人は直視を避けたがるから距離を広く取るのではないか」という仮説も検証したが、直視の有無による対人距離への主効果は認められなかった(ベイズ推定でも同様)。もっともらしい説明が一つ、ここで消えている。
ここに矛盾がある。広い距離を好む人々が、世界有数の過密な車両に毎朝乗っている。好みと行動が真逆だ。この矛盾を解くには、まず「対人距離」が何を指しているのかを数字で押さえる必要がある。
対人距離を最初に体系化したのは文化人類学者 Edward T. Hall だった。1966年に提唱した「近接学(プロクセミクス)」で、人が他者との間に取る距離を4つの帯に分けている。
この区分は長く教科書的な枠組みだったが、実測の裏づけを大規模に取ったのは比較的最近だ。Sorokowska らが2017年に Journal of Cross-Cultural Psychology へ発表した研究は、42カ国・8,943人から選好距離を集めた。42カ国の平均値はこうなる——社会距離135.1cm、個体距離91.7cm、親密距離31.9cm。Hall の帯は、おおむね実測に耐えた。
だが同時に、この研究は大きな国差を明らかにした。見知らぬ相手に対して快適と感じる距離は、アルゼンチンで約76cm、ルーマニアでは約140cm。同じ「他人と話す」という行為に必要な空間が、国によってほぼ2倍違う。さらに女性と高齢の参加者ほど広い距離を好み、地域の気温が変動の一部を説明した。温暖な国ほど見知らぬ相手との距離が近く、寒冷な国ほど親密な相手との距離が近い、という非対称なパターンも報告されている。
ここまでを踏まえると、満員電車はきわめて異常な環境に見える。社会距離135cmが標準であるはずの場面で、実際には親密距離である31.9cmすら下回る。本来は恋人にしか許さない距離に、見知らぬ他人が入り続ける状態だ。
では、混雑した車両ほどストレスが高いはずだ。この当たり前の予想を、実測で確かめた研究がある。
Gary W. Evans と Richard E. Wener は2007年、Journal of Environmental Psychology に「電車内の混雑とパーソナルスペースの侵害——頼むから真ん中に座らせないでくれ」という論文を発表した。対象はラッシュ時の都市鉄道通勤者139人。ストレスを3つの独立した方法で測っている——本人の自己申告、唾液中のコルチゾール(自宅で採った同時刻のベースラインと比較)、そして降車後の課題成績に現れる後効果だ。
結果は予想を裏切った。
車両がどれだけ混んでいるかという密度は、自己申告のストレスにも、コルチゾールにも、課題成績の後効果にも影響しなかった。
本人の周囲がどれだけ詰まっているかという局所的な密度は、3つの指標すべてを有意に動かした(唾液コルチゾールとの関連は p < .02)。同じ車両に乗っていても、隣に人がいるかどうかで身体反応が変わる。
著者らはこう結論している——個々人の間隔がパーソナルスペースの侵害を引き起こすことのほうが、密度そのものよりはるかに顕著な環境条件である。論文の副題「頼むから真ん中に座らせないでくれ」は、この発見をそのまま言い表している。3人掛けの真ん中は、両側から同時に距離を侵される席だ。
ここが転回点。私たちが「混雑がつらい」と語るとき、実際に身体が反応していたのは空間全体の密度ではなく、隣の一人との距離だった。では、なぜ「隣」だけが特別なのか。答えは脳の側にあった。
2009年、Kennedy, Gläscher, Tyszka & Adolphs が Nature Neuroscience に報告した症例は、この問いに直接答えている。
対象は SM と呼ばれる当時42歳の女性。ある疾患により両側の扁桃体が広範に損傷している。研究者が実験者との間に取る距離を測ったところ、SM は実験者のすぐ近くに立つことを好んだ。対照群の参加者は、同じ実験者に対しておよそ2倍の距離を取った。SM には、他人が近づきすぎることへの不快がそもそも生じなかった。
さらに健常者を対象にした撮像では、他者が近接した状況で扁桃体の活動が上昇することが確認された。研究者らの解釈はこうだ——扁桃体は、パーソナルスペースが侵されたときに生じる強い情動反応を引き起こすために必要であり、その働きによって対人距離が調整されている。
つまりこういうことだ。パーソナルスペースは、身体の周りに実在する空間ではない。脳が「近すぎる」と判定したときにだけ鳴る警報であり、その警報装置を失えば、距離という感覚そのものが消える。物理的な距離は、この装置を経由してはじめて精神に届く。
3つの発見を並べると、冒頭の矛盾が解ける。
日本人は広い対人距離を好む。それでも満員電車に耐えられるのは、距離に鈍感だからではない。警報を鳴らす条件のほうを操作しているからだ。目を閉じる、イヤホンで音を塞ぐ、スマートフォンの画面に視線を落とす——これらはしばしば「気晴らし」と説明されるが、機能としてはもっと直接的だ。隣にいるのが「関係を持ちうる他者」であるという情報の入力を、意図的に減らしている。人としての処理をやめれば、警報の閾値は上がる。
この読み方は、Evans & Wener の結果ともきれいに整合する。車両全体の密度は、視界の外にある抽象的な数値だ。身体は反応しようがない。一方で隣席の人間は、視線・呼吸・体温という形で入力を送り続けてくる。効いていたのは物理的な距離そのものではなく、そこから生成される「他者がいる」という信号の強さだった。
もう一つ、通勤電車が耐えられる理由がある。終わりが決まっていることだ。乗車時間は有限で、降りる駅は自分で決めている。同じ距離の侵害でも、逃れられない状況では意味が変わる。パーソナルスペースの侵害が本当に害になるのは、警報が鳴り続けているのに、それを止める手段が本人の側に無いときだ。
ここに、SURPLUSが何度も出会ってきた構造がまた現れる。不動産は面積を売り、鉄道は所要時間を売る。どちらも数字として正確だ。だがその数字が実際に売っていたのは、警報を自分で切れる状態のほうだった。個室が持つ価値も、始発駅から座って通う価値も、平米数や分数には現れない。
結論。物理的な距離は、それ自体では精神に届かない。扁桃体という装置が「他者が近い」と判定し、警報を鳴らして初めて効き始める。だから同じ31.9cmでも、恋人となら親密距離、他人となら侵害になる。距離は長さではなく、関係の関数だった。
補足。本記事が扱った研究のうち、Kennedy らの知見は両側扁桃体損傷という極めて稀な単一症例と、健常者を対象とした撮像の組み合わせに基づく。単一症例からの一般化には限界がある。Evans & Wener の研究は特定の路線・時間帯の通勤者を対象としたフィールド研究であり、他の交通環境にそのまま当てはまるとは限らない。また対人距離の国差についても、Sorokowska らは気温など複数の要因を検討しているが、文化差の因果を特定したものではない。
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本記事の要約・引用元。数値は各文献の公表値に基づく。
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