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「都会は脳を壊す」という定説が、
13年かけて覆りかけている

イソップは「田舎のねずみは安全、都会のねずみは危険」と説いた。2011年、脳科学はこれをfMRIで裏付けたかに見えた。だが2021年以降に集まった、より大規模なデータは、正反対の方向を指し始めている。

この記事で手に入るもの

2011年にNatureで発表され「都市育ちは脳のストレス回路が変わる」という定説を作った研究と、それを逆方向から揺さぶる2021年以降の大規模データ。ひとつの通説が、より大きなサンプルサイズによって反転しかけているという、科学がまだ更新中である現場の話。

01 — 2011年、都市が脳を変えるという発見

fMRIが描いた「都会育ちの脳」

2011年、精神医学者フロリアン・レーダーボーゲンらがNature誌に発表した研究は、大きな注目を集めた。被験者に社会的ストレス課題を与えながらfMRIで脳活動を計測したところ、現在都市に住んでいる人ほど扁桃体(amygdala)の反応が強く、幼少期を都市で過ごした人ほど前部帯状回の一部(perigenual ACC)の活動パターンが違っていたという。

この結果は「都市という環境そのものが、ストレスを処理する脳の回路を変えてしまう」という強いメッセージとして受け取られた。統合失調症など一部の精神疾患の発症率が都市部で高いという既存の疫学データとも符合するように見え、「都会は脳に悪い」という物語は一気に説得力を増した。

ここが2011年の骨格。都市に住む・都市で育つという環境要因が、ストレスに反応する脳の部位の働き方そのものを変える——という、環境と神経科学を直結させた発見だった。


02 — 10年後、逆方向のデータが集まり始めた

「大都市ほど、うつ病は少ない」という逆張りの実証

ところが2021年、アダム・スティアーらがPNAS誌に発表した研究は、まったく逆の関連を報告した。アメリカの4つの大規模データセットを横断的に分析したところ、都市化の度合いが高い地域ほど、うつ病の有病率が低いという傾向が一貫して見られたという。

2011年の研究が測っていたのは、ストレス課題への脳の反応という急性のストレス反応性だった。一方、2021年の研究が測っているのは、臨床的なうつ病の有病率という慢性的な精神疾患の帰結である。両者は必ずしも矛盾しない——都市はストレスへの反応を鋭くする一方で、医療・娯楽・多様な社会関係へのアクセスという形で、うつ病そのものへの防御になっている可能性がある。

01

「反応の強さ」と「疾患の少なさ」は別の指標

fMRIが測るストレス反応性と、うつ病の有病率は、そもそも違う次元の話。片方が悪化しても、もう片方が改善することはありうる。

02

都市が「守り」になる経路も複数ある

医療機関へのアクセス、多様な人間関係の選択肢、匿名性がもたらす自由——これらは2011年の研究が捉えていなかった、都市の別の顔である。


03 — 東アジアからも、同じ方向のデータ

中国の高齢者コホートが示す、農村部のうつ症状

アメリカだけの現象ではない。中国の高齢者を対象とした大規模追跡調査CHARLS(中国健康与養老追跡調査)のデータでも、2024年前後の分析で、都市部の高齢者のうつ症状有病率26.3%に対し、農村部は40.4%と、農村部の方が明確に高いという結果が報告されている。約1万4千人という大きなサンプルサイズを持つこのデータは、Stier 2021の方向性を、まったく別の国・別の世代で裏づけた形になる。

もっとも、すべての研究が同じ方向を向いているわけではない。オーストリアのザルツブルクを対象にした2024年の研究は、依然として「都市部の方がメンタルヘルスの状態が悪い」という、2011年寄りの結果を報告している。通説の反転は、まだ全会一致には程遠い。

ここが数字の核心。農村部40.4% vs 都市部26.3%という14ポイント超の差は、偶然とは考えにくい規模だ。だが同時に、ザルツブルクのような反例も残っている——これは「決着した話」ではなく「進行中の論争」である。


04 — なぜ、こんなに結果が割れるのか

「都市」の中身が、国や世代でまったく違う

結果が割れる大きな理由のひとつは、比較している「農村」の中身が場所によって違うことにある。『出て行きたい』は、憧れだけではなかったで見たように、日本や中国では若い世代ほど大都市に流出し、農村には高齢者が取り残される傾向が強い。CHARLSが対象にした農村の高齢者は、家族の支え手が都市に出払った後に残された層である可能性が高く、これは欧米の農村部とは異なる文脈だ。

もうひとつの理由は、そもそも「メンタルヘルスの悪さ」を何で測るかという方法論の違いである。fMRIでのストレス反応、自己申告のうつ症状スケール、臨床診断の有病率——これらは重なり合ってはいるが同じものではない。ある研究で使われた指標が改善していても、別の指標では悪化しているということは、脳科学の世界では珍しくない。

都市側の説明
医療・関係性へのアクセス都市は選択肢の多さゆえに、孤立した個人でも支援に辿り着きやすい。
農村側の説明
支え手の流出若年層の都市への流出により、農村に残る高齢者ほど社会的支援を失いやすい。

05 — イソップの寓話、その後

「都会は危険、田舎は安全」は、単純化しすぎだった

イソップの寓話は、都会のご馳走と引き換えに命の危険を背負う都会のねずみと、質素だが安全な田舎のねずみを対比させた。2011年の脳科学は、この寓話に神経科学的な裏付けを与えたように見えた。だが13年をかけて積み上がったデータは、話がそれほど単純ではないことを示している。

田舎の幸福パラドックスで見たのは、主観的な幸福度という尺度での「田舎か都会か」だった。この記事が扱うのは、fMRIの神経回路や臨床的なうつ症状という、まったく別の測定軸である。同じ「都会 vs 田舎」というテーマでも、どの物差しを使うかによって、勝敗は入れ替わりうる。

ここが結論。都市が脳に「悪い」のか「良い」のかという二択そのものが、粗すぎる問いだったのかもしれない。急性のストレス反応性では都市が不利に、慢性的なうつ病の有病率では都市が有利に出る——ひとつの環境が、測る物差しによって正反対の顔を見せる。これもまた、単一の指標では捉えきれない豊かさの話である。


06 — 出典

参考文献

本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。

01
Lederbogen, F. et al. (2011)City living and urban upbringing affect neural social stress processing in humans. Nature 474, 498–501. 都市居住・都市育ちと社会的ストレス時の脳活動の関連を報告した、本記事セクション01の起点となる研究。
02
Stier, A. J. et al. (2021) 米国の大規模データセット4件を横断した分析。Proceedings of the National Academy of Sciences (PNAS)。都市化度が高い地域ほどうつ病有病率が低いという関連を報告。本記事セクション02の根拠。
03
CHARLS高齢者コホート研究(中国健康与養老追跡調査、2024年前後、n=13,993)。都市部26.3%・農村部40.4%といううつ症状有病率の差を報告。本記事セクション03の数値の出典。
04
ザルツブルク研究(オーストリア、2024年)。上記と逆方向に、都市部でメンタルヘルスの状態がより悪いとする少数派の報告。本記事セクション03の反例。
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