大学院生が再現できなかった、ある高名な経済学論文。原因は、Excelの数式を5セル分ドラッグし忘れるという、誰にでも起こりうるミスだった。その論文は、各国の緊縮財政の論拠として引用され続けていた。研究が政策になるときの、脆さについて。
Reinhart & Rogoff(2010)の「債務対GDP比90%超で成長率が落ちる」という論文に潜んでいたExcelの数式エラーをHerndon, Ash & Pollin(2013)が発見した顛末、Reeves, Stuckler & McKee(2014)が示した緊縮財政期の欧米で1万人超の「経済的自殺」という健康被害の推計、そして対照的に地味な制度設計だけで結果を出した3つの政策(英国年金自動加入・フィンランドのHousing First・有鉛ガソリン規制)——「研究の正しさ」と「政策の影響力」は必ずしも比例しないという逆説を追いかける。
2010年、ハーバード大学のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフが発表した論文『Growth in a Time of Debt』は、20カ国・数十年分のデータを分析し、政府債務が対GDP比90%を超えると平均成長率が急落する(-0.1%)という関係を示した。
この「90%閾値」は、単なる学術的発見にとどまらなかった。2010年代前半、欧州債務危機とアメリカの財政論争のただ中で、緊縮財政を主張する政治家・政策当局者から繰り返し引用され、財政赤字削減を急ぐべき根拠として扱われるようになった。ノーベル賞級の経済学者2人による、明快でわかりやすい1本の数字——それは政策論争において、抗いがたい説得力を持っていた。
2013年、マサチューセッツ大学アマースト校の大学院生トーマス・ハーンドンは、指導教員のマイケル・アッシュ、ロバート・ポーリンとともに、この有名な論文の結果を再現しようとして、うまくいかないことに気づいた。彼らは著者に直接連絡を取り、実際に使われたExcelスプレッドシートの提供を受けた。
そこで見つかったのは、初歩的な数式のミスだった。平均成長率を計算する数式が、本来含めるべき5セル分の範囲までドラッグされておらず、デンマーク・カナダ・ベルギー・オーストリア・オーストラリアという5カ国のデータが、集計からまるごと欠落していたのだ。加えて、重み付けの方法にも別の問題が指摘された。
ここが最初の逆説。「政府債務がGDPの90%を超えると成長率が急落する」という結論は、数式の範囲指定ミスと、そこから生じたデータの欠落によって支えられていた。修正後の平均成長率は、-0.1%ではなくプラス2.2%だった。
この論争が特に重かったのは、「90%閾値」が引用された先が、単なる学術論争ではなく、実際の緊縮財政政策だったからだ。オックスフォード大学のデイヴィッド・スタックラーらは、2008年の金融危機後の景気後退そのもの、そしてそれに続く緊縮財政が、実際にどれほどの健康被害と結びついていたかを追跡してきた。
リーブス、スタックラー&マッキー(2014)は、米国・カナダ・EU加盟22カ国のデータを分析し、2007〜2010年の景気後退期に、過去のトレンドから予測される水準を超えて10,000件以上の「経済的自殺」が発生していたと推計した。内訳はEUで約7,950件、米国で約4,750件、カナダで約240件。緊縮財政による医療・福祉予算の削減が、この超過分にさらに寄与した可能性も指摘されている。
ここで留保すべきこと。「90%閾値」論文の1つのExcelミスが、緊縮財政という政策判断を単独で引き起こしたと断定することはできない。政治的な意思決定には他の多くの要因が絡む。だが、影響力のある実証研究が、検証もされずに政策論争の「科学的根拠」として使われてしまうリスクは、この事例が最も分かりやすい形で示している。
研究の脆さは、経済学だけの話ではない。米国で1970年代に始まった「Scared Straight」プログラムは、非行少年を刑務所へ連れて行き、収監者に更生の厳しさを語らせることで、犯罪の道から引き離そうとする善意の取り組みだった。
だが、ペトロシーノらによるコクラン・レビュー(9件の研究を統合したメタ分析)は、衝撃的な結果を示した。プログラムを受けた群は、何もしなかった対照群と比べて、その後の犯罪率がむしろ1%〜28%高かったのだ。2013年の更新レビューでも、この結論を覆す新しい研究は見つからなかった。「怖がらせれば更生する」という直感的な政策は、検証してみると逆効果だった。
派手な論文や、善意に満ちた啓発プログラムが期待外れに終わる一方で、実際に人々の幸福を動かした政策は、しばしば地味な制度設計の変更に過ぎなかった。
英国は2012年、企業年金への加入を「自分で申し込む」方式から「自動加入・望めば脱退」方式に変えた。対象者の参加率は2012年の約40%から2024年には約89%まで上昇した。訴えかけたのは「意志」ではなく、初期設定という選択の構造だった。
フィンランドは2008年、ホームレス支援の順序を「まず自立支援、うまくいったら住居」から「まず無条件に住居、支援はその後」というHousing Firstモデルへ転換した。長期ホームレス人口は35%以上減少し、支援対象者1人あたり年間約1万〜5万ユーロの公的支出削減にもつながったと評価されている。
有鉛ガソリンの規制は、子どもの知能指数(IQ)低下と暴力犯罪の両方に結びついていたとされる。ある推計では、鉛の排出量が10%減ると、20年後の暴力犯罪が平均8%減少するという関係が示された。国連環境計画は、この規制の世界的な達成により、年間120万人超の早期死亡が防がれ、世界経済で2.45兆ドルが節約されたと総括している。
ここが核心。華々しい論文の1つの数式より、初期設定・支援の順序・添加物の禁止といった地味な制度設計の方が、実際に人々の生活を動かすことがある。政策の影響力は、論文の知名度や説得力の強さとは、必ずしも比例しない。
SURPLUSがこれまで見てきた「方法論シリーズ」(Jカーブ神話・choice overload神話・40%円グラフの崩壊)は、いずれも個人の幸福に関する通説の再検証だった。今回のReinhart-Rogoffの事例は、同じ構造が国家の財政政策という、はるかに大きな賭け金の場でも起きていたことを示している。
大学院生が元データを取り寄せ、数式を1つずつ確認するという地道な検証作業には、外から見える華やかさは何もない。だが、その検証が行われるかどうかは、何百万人もの生活水準を左右しうる。再現性・データ公開・第三者による検証というインフラは、GDPにも学術的な評価指標にも十分には計上されない、極めて高いレバレッジを持つ「見えない豊かさ」だと言える。
Reinhart & Rogoff論文の誤りは明確だが、当時の各国政府が緊縮財政を選んだ理由は、金融市場の圧力・既存の財政赤字・政治的なイデオロギーなど、他にも多数存在する。1つの論文の1つの誤りだけが政策を決定づけたとする単純な因果関係の物語は、実証的にも支持されない。
また、Scared StraightやHousing Firstの効果推計も、実施国・時期・対象者によって数値の幅がある。有鉛ガソリンと犯罪減少の関係についても、その寄与度は0%から36%まで研究によって推計が分かれており、単一の要因に還元すべきではない。
※本記事は経済学・公共政策に関する学術研究・評価報告の紹介であり、特定の政治的立場を推奨するものではありません。
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