← SURPLUS / 記事一覧へ THE J-CURVE MYTH ・ 見えない豊かさの経済学

「適量のお酒は体にいい」は、
統計のマジックだった。

健康診断や酒席の会話で幾度となく引用されてきた「適量飲酒者は非飲酒者より長生きする」というJカーブ。その根拠を87研究のメタ分析で洗い直すと、比較対象群への一つの混入が、通説の正体だったと判明した。

この記事で手に入るもの

方法論の質が高い研究に絞るとJカーブの健康優位性がほぼ消失したという2016年のメタ分析、「非飲酒者」群に健康を害してやめた元飲酒者が紛れ込んでいたという"sick quitter"バイアスの正体、そして2018年のLancet GBD研究が導いた「安全な飲酒量はゼロ」という追認。

01 — おなじみのJカーブ

「飲まない人より、少し飲む人の方が長生きする」というグラフ

横軸に飲酒量、縦軸に死亡リスクを取ると、非飲酒者よりも少量〜中程度の飲酒者の方がリスクがわずかに低く、多量飲酒者になって初めてリスクが跳ね上がる——このJ字型の曲線は、長年にわたり疫学研究で繰り返し報告され、健康記事や酒席の話題で「適量なら体にいい」という通説の根拠として引用されてきた。

この曲線が本物なら、飲酒はある種の健康行動ということになる。だが、この通説の土台そのものが、比較のやり方に潜む一つの欠陥によって作られていた可能性が指摘されている。

ここが半世紀近く信じられてきた話。「非飲酒者」と「適量飲酒者」を単純に比べれば、後者の方が健康に見える——その比較の前提そのものが、崩れかけている。


02 — 87研究の再検証

方法論の質で絞り込むと、差はほぼ消えた

2016年、ティム・ストックウェルらは学術誌Journal of Studies on Alcohol and Drugsに、飲酒量と死亡リスクの関係を調べた87の観察研究を対象にしたメタ分析を発表した。単純にすべての研究をプールすると、これまで通りのJカーブ——適量飲酒者の死亡リスクが非飲酒者よりわずかに低い——が再現された。

だが、研究デザインの方法論的な質(比較対象群の設定が適切か、追跡期間や交絡因子の統制が十分かなど)で研究を絞り込んでいくと、方法論の質が高い研究に限定するほど、適量飲酒者と非飲酒者の健康差はほぼ消失に向かった。差を生んでいたのは飲酒量そのものではなく、質の低い研究に共通する、ある比較群の設定ミスだった。

01

「非飲酒者」群に、元飲酒者が紛れ込んでいた

この現象は "sick quitter"(病気でやめた元飲酒者)バイアスと呼ばれる。健康を損なって飲酒をやめた人が「非飲酒者」グループに分類され、その集団の平均的な健康状態を実際より低く見せていた。


03 — 195カ国のLancet研究

「安全な飲酒量はゼロ」という2018年の追認

2018年、医学誌The Lancetに掲載されたGlobal Burden of Disease研究は、195の国と地域の飲酒とあらゆる疾病負荷の関連を分析し、これまでで最大規模の裏付けを与えた。この研究が導いた結論は、Jカーブ通説とは対照的なものだった——健康リスクを最小化するという観点では、最も安全な飲酒量はゼロである、というものだ。

少量の飲酒であっても、がんをはじめとする一部の疾患リスクはわずかながら上昇する。かつてJカーブの根拠とされた「少量飲酒者の総死亡リスクの低さ」は、比較対象群のゆがみによって作られた見かけ上の効果であり、疾病全体を俯瞰する大規模データでは支持されなかった。

ここが数字の核心。195カ国という規模で見ても、「適量なら体にいい」を裏付ける形での安全域は見当たらなかった。


04 — なぜ専門家すら見抜けなかったのか

「誰と比べているか」という、数字の裏にある選択

sick quitterバイアスが厄介なのは、統計的な計算ミスではなく、比較対象群を誰にするかという、データ収集より前の設計段階に紛れ込んでいた点にある。健康が悪化して飲酒をやめた人と、もともと飲まない人は、見た目には同じ「非飲酒者」というラベルでも、健康状態の出発点がまったく違う。この違いを区別せずに一つの箱にまとめてしまえば、「適量飲酒者の方が健康に見える」という因果の逆転した結論が、統計的に有意な形で出力されてしまう。

これは150万円を3ヶ月で使い切る実験で見た、有名な実験結果が追試で崩れていく再現性危機とも通じる話だ。数字そのものは嘘をつかないが、その数字がどんな比較から生まれたかを問わないまま鵜呑みにすると、通説は簡単に一人歩きする

見かけの効果
単純プールした87研究のJカーブ適量飲酒者が非飲酒者より健康に見える、という表面的な相関。
正体
sick quitterバイアス「非飲酒者」群に混入した、病気でやめた元飲酒者による健康度の過小評価。

05 — 数字ではなく、比較の設計を疑う

通説を作るのは数字ではなく、比較の設計だった

Jカーブ神話が半世紀近く生き延びた理由は、その結論が「少しの楽しみは許される」という直感に心地よく寄り添っていたからでもある。だが、方法論の質を上げて比較群を洗い直すと、その心地よい結論を支えていた土台は、統計上の見かけにすぎなかった。

眠る国ほど、幸福であるで扱った健康指標の国際比較とも共通するが、健康にまつわる「通説」は、比較対象群の設計次第でいくらでも姿を変える。数字を疑うのではなく、その数字が誰と誰を比べて生まれたのかを疑う——それが、Jカーブ神話が遺した一番の教訓だった。

ここが結論。「適量のお酒は体にいい」を支えていたのは、飲酒の効能ではなく、比較対象群への一つの混入だった。通説を崩したのは新しいデータではなく、既存のデータをどう切り分けるかという、見方の違いだった。


06 — 出典

参考文献

本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。

01
Stockwell, T., et al. (2016)Do "Moderate" Drinkers Have Reduced Mortality Risk? A Systematic Review and Meta-Analysis of Alcohol Consumption and All-Cause Mortality. Journal of Studies on Alcohol and Drugs, 77(2)(87研究のメタ分析)。方法論の質が高い研究ほどJカーブの健康優位性が消失すると報告。本記事セクション02の核となる出典。
02
GBD 2016 Alcohol Collaborators (2018)Alcohol use and burden for 195 countries and territories, 1990–2016: a systematic analysis for the Global Burden of Disease Study 2016. The Lancet。「安全な飲酒量はゼロ」と結論。本記事セクション03の出典。
03
Fillmore, K. M., et al. (2007)Moderate alcohol use and reduced mortality risk: Systematic error in prospective studies. Addiction Research & Theory。sick quitterバイアスの概念を体系的に指摘した先行研究。本記事セクション02・04の理論的背景。
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