人生の3分の1を、私たちは眠って過ごす。家計簿にも履歴書にも残らないこの時間を、経済学は「浪費」と見るか「投資」と見るか。賃金が上がると睡眠が減るという1990年の古典から、スマートフォンが集めた52カ国の睡眠ログまで——毎晩やってくる8時間の、見えない収支を計算する。
睡眠も経済的な「選択」であることを示した古典(賃金が上がると人は眠らなくなる)、国平均の睡眠時間が幸福度の分散の約30%を説明するという52カ国データ、そして「量より質」を示す家計パネルの結果。削った睡眠の本当の値段を見積もる材料。
1990年、経済学者のビドルとハマーメッシュは、当時としては挑発的な問いを立てた——睡眠も、労働や余暇と同じ「時間の配分先」として経済学で扱えるのではないか。
それまで睡眠は、経済モデルの外側にある生理的な固定費として扱われてきた。誰もが必要なだけ眠り、残った時間を働くか遊ぶかに配分する、と。だが二人が米国などの生活時間データを分析すると、睡眠時間は賃金に反応して動いていた。時間あたりの稼ぎが大きい人ほど、睡眠は短い。眠っている1時間の機会費用——その時間働いていれば得られた金額——が上がると、人は眠りを「売って」いた。
この発見の含意は大きい。睡眠が選択なら、私たちは毎晩、値付けを間違えうる。市場は起きている時間しか買ってくれないから、睡眠の価値は市場価格ゼロとして計算されがちだ。かくして睡眠は、GDPにも家計簿にも映らないまま、削られる側の時間になった。
問題設定。睡眠は人生最大の時間支出でありながら、帳簿の上ではタダ同然の扱いを受けている。では、その本当のリターンはいくらなのか。
スマートフォンの睡眠記録アプリは、研究者が夢見なかった規模のデータを生んだ。ラユネンらは、Sleep Cycleアプリが記録した52カ国の平均睡眠時間を、国連の世界幸福度報告で使われる幸福度(カントリルの梯子、0〜10点)と突き合わせた。
# Lajunen, Gaygısız & Wang (2023) — 52カ国の睡眠×幸福
# 睡眠: Sleep Cycleアプリの実測ログ / 幸福: カントリル梯子
国平均の睡眠時間の幅 : 6時間15分 〜 7時間30分(最長は北欧、最短はアジア)
睡眠時間と幸福度の相関 : r = 0.54 (p<0.001)
説明できる幸福度の分散 : 約30%
# 眠る国ほど、幸福である——国レベルでは、はっきりと
国レベルの相関には注意がいる。豊かで治安が良く統治の効いた国ほど、安心して長く眠れるし幸福度も高い——実際この研究でも、睡眠時間と最も強く結びつく要因はガバナンスの質だった。眠りの長さは、原因である前に、社会の安心の測定器でもある。夜ゆっくり眠れるかどうかは、その国の見えない豊かさの総合指標なのだ。
それでも方向は一貫している。同種の国際比較では、平均睡眠が10分長い国は幸福スコアが0.1〜0.15点高い。そして日本は、OECDの生活時間調査で常に加盟国最短クラスの睡眠時間として登場する常連である。世界有数の経済大国が、世界有数の寝不足大国でもある——このねじれは、本メディアが追いかけてきた「GDPに映らない豊かさの取りこぼし」の、最もわかりやすい実例かもしれない。
では個人の帳簿ではどうか。チェコの家計パネル調査(約4,500人を2018〜2020年に追跡)を使ったクドルナーチョヴァーとクドルナーチの分析は、同じ人の睡眠の変化と生活満足度の変化を突き合わせた。国際比較より因果に一歩近い設計だ。
つまり睡眠は、時間をただ積めばいいコモディティではなく、歩留まりのある生産工程に近い。そして歩留まりを下げる主要因——ストレス、深夜のスクリーン、不規則な勤務——の多くは、日中の経済活動の副産物である。私たちは昼に稼いだストレスを、夜の睡眠の質で支払っている。
ここまでの材料で、冒頭の値付けをやり直せる。深夜1時間の残業を選ぶとき、帳簿の貸方には残業代が記帳される。借方に来るのは何か。
睡眠不足は注意力・判断・情緒の全部に効く。残業1時間の産出と、翌日8時間の効率低下の合計は、しばしば釣り合わない。労働時間の研究で見た「週49時間を超えると生産性が逓減する」現象の一部は、睡眠という補給線の寸断で説明がつく。
睡眠は幸福の「土台の層」への毎晩の積み立てだ。ここが崩れると、日中に何を買っても、誰と会っても、回収効率が落ちる。幸福の他のすべての投資の利回りを下げる、静かなレバレッジである。
眠っている時間は誰にも請求できない。だから安く見える。だが「請求できない」と「価値がない」は別の話だ——家事や育児と同じ、GDPが数え損ねる無償の生産の一種として睡眠を扱うと、帳簿の見え方は変わる。
結論。睡眠は消費ではなく、毎晩やってくる強制積立型の投資である。賃金はそれを売れと囁くが、52カ国のデータは静かに逆を指している——よく眠る国ほど、幸福なのだ。削った1時間の本当の値段は、給与明細ではなく、翌日のあなたと、長期の幸福の帳簿に記帳される。
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