行き過ぎた一極集中を止める手段は、前近代なら遷都という政治的決断か、崩壊という破局のどちらかしかなかった。地方創生とリモートワークという「穏やかな手段」を手にした現代は、はたして一極集中を直せているのだろうか。
ゼロから首都を造った20世紀の実験(アンカラ・ブラジリア・ネピドー)が実は何のために行われたのかという歴史、地方創生とリモートワークが実際には何を分散させ、何を分散させなかったかという実証データ、そして古代の是正と現代の是正を分ける決定的な違いまで。
前回の記事では、一極集中都市の繁栄を支えた装置(穀物船・運河・参勤交代)が、同時にその都市の単一障害点でもあったことを見た。効率のために集中すればするほど、失われたときの落差も大きくなる——これがB連載でここまで辿ってきた結論だった。
ならば、この設計そのものを人類は「直そう」としてこなかったのか。答えは、してきた、だ。ただしその手段は、時代によってまったく異なる顔をしている。古代の是正は暴力的で確実だった。現代の是正は穏やかだが、驚くほど頼りない。
前近代の社会が一極集中を「直す」手段は、実質的に二つしかなかった。ひとつは前回見た崩壊——戦争・飢饉・交易路の遮断が引き金となる、非意図的だが強制的なリセットだ。もうひとつは遷都——為政者が政治的な意志で首都機能そのものを別の場所へ移す決断である。
日本の古代史はこの遷都の実例に富む。平城京(奈良)から長岡京、そして平安京(京都)へと、8世紀末のわずか十数年の間に二度の遷都が行われている。その動機は疫病や政治的な権力闘争からの脱却であって、必ずしも「一極集中の是正」そのものが目的だったわけではない。だが結果としては、それまで蓄積されてきた都市インフラと人口を惜しげもなく手放し、まっさらな土地に一からやり直すという、極めて荒っぽい「リセット」だった。
ここが核心。古代の是正手段は、どちらも個人の選択ではなく、権力か環境が強制する一撃だった。緩やかな移行という選択肢は、そもそも存在しなかった。
20世紀に入ると、国家がまっさらな土地に人工的な首都を建設する「計画遷都」が相次いだ。トルコのアンカラ(1923年、イスタンブールから)、ブラジルのブラジリア(1960年、リオデジャネイロから)、パキスタンのイスラマバード、カザフスタンのアスタナ(1997年、アルマトイから)、ミャンマーのネピドー(2005年、ヤンゴンから)——いずれも既存の巨大都市から、内陸の何もない土地へと首都機能を移した。
都市計画史家ゴードン(2006)が20世紀の計画首都群を分析した研究によれば、これらの遷都の動機の多くは、一極集中の是正という経済的合理性よりも、旧エリート層・旧宗主国の影響圏からの離脱や、国土の地政学的な中心性の主張といった象徴的・政治的な理由が中心だった。ブラジリアは「内陸開発」を掲げたが、リオデジャネイロの経済的な求心力そのものは今日まで揺らいでいない。旧首都は依然として旧首都のまま、商業・金融の中心であり続けている場合がほとんどだ。
行政機能だけを人為的に移植しても、人口・産業・資本が集積する経済的重心はそう簡単には追随しない。(Gordon, 2006)
日本では2014年、「まち・ひと・しごと創生法」のもとで地方創生政策が本格始動した。東京一極集中に歯止めをかけ、地方への人の流れを生み出すことが目標に掲げられた。政策開始から10年以上が経った今も、25_exodusで見た2023年の総務省データでは、東京圏への転入超過は女性6.9万人・男性5.8万人、合計12万人を超える規模で続いている。少なくとも数字の上では、流れは止まっていない。
コロナ禍で普及したリモートワークは、もっと直接的に「場所からの解放」を実現するはずだった。だが実証研究はやや異なる像を描く。ラマニ&ブルーム(2021)が命名した「ドーナツ効果」は、都心のオフィス街から郊外へ人が移動する現象を確認した——ただしそれは都心から数十キロの近距離シフトであって、真の意味での地方への分散ではなかった。
アルトフら(2022)がリンクトインの求職者データを用いてリモートワークの地理的効果を分析した研究はさらに踏み込む。リモートワークによって人が実際に移り住む先は、すでに気候や自然環境で人気の高い郊外・保養地に偏っており、経済的に衰退した真の周辺地域ではなかった。分散は起きている。だがそれは「豊かな場所の中での再配置」であって、一極集中そのものの是正ではない。
古代の是正手段——遷都も崩壊も——は、いずれも個人の意志を介さない強制力によって成立していた。為政者の一存、あるいは環境そのものの崩壊が、有無を言わさず人の配置を書き換えた。対して現代の是正手段は、地方創生の補助金にせよリモートワークの自由度にせよ、個人が自分の意志で「移り住むかどうか」を選べることを前提にした、緩やかなインセンティブ設計にすぎない。
フジタ・クルーグマン・ヴェナブルズ(1999)が空間経済学として定式化した集積の経済(agglomeration economies)——同じ場所に人と企業が集まるほど、互いの生産性が高まり合うという自己強化的な力——は、個人の自由な選択に委ねられた分散政策よりも、はるかに強力な求心力として働き続ける。強制力を伴わない誘導だけでは、この求心力に対抗するにはあまりに弱い。
ここが核心。古代の是正が効いたのは、それが強制だったからだ。現代の是正が効きにくいのは、それが自由意志に委ねられた誘導だからだ。一極集中を「直す」ことの難しさは、道具の性能の問題ではなく、強制なしに求心力へ対抗しようとしていることそのものにある。
32_megacityでは一極集中が繁栄の証だったことを、33_graveyardではその繁栄がそのまま崩壊の設計図だったことを見た。そして今回、その設計を「直す」試みの多くが、強制力を欠くがゆえに効果を発揮しきれずにいることを見た。
一極集中は効率であり、同時に脆さであり、そして是正しようとしてもなかなか動かない慣性でもある。それを「悪」と断じることも、「仕方ない」と受け入れることも、どちらも早計だろう。少なくとも確かなのは、遷都という荒療治にも崩壊という破局にも頼らずに一極集中を緩めた社会を、人類はまだ持っていないということだ。
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