1960年、3大ネットワークはプライムタイムの視聴率でほぼ全てを占めていた。語られてきたのは「最高の番組が勝った」という話。だがその席順は、8年前のある行政決定の時点で、すでに大きく決まっていた。
テレビが「無い家が例外」になった1960年代、NBC・CBS・ABCがプライムタイムの90%超を占めた実際の視聴率と、その裏で1952年のFCC決定が第4のネットワークDuMontを技術的に視聴不能な周波数へ追いやり、1964年まで12年間新規参入の扉を閉じていたという構造を、一次資料で確認する。
1950年時点でテレビを持つ米国家庭は8%に満たなかった。それが1960年には87〜90%に達し、1960年代が終わる頃には95%を超え、テレビ世帯数は約5,850万に達していたと推計されている。わずか一世代でテレビは「無い家が例外」という存在になった。
視聴時間も伸びていた。Nielsenの推計では、1961年の1世帯当たり平均視聴時間は1日5時間7分、1962年は5時間6分。1958年の5時間13分をピークに、プライムタイム(19:30〜23:00)の視聴は緩やかに減りつつも、日中視聴が1959年の1時間21分から1962年の1時間29分へ伸び、総視聴時間は高い水準を保っていた。
テレビが家庭の時間を握った10年。その時間の大半を、たった3つの放送局が分け合っていた。
1960年5月、29都市を対象にしたTrendexの調査では、プライムタイム(20:00〜22:30)の視聴率シェアはABC 34.3%・CBS 33.9%・NBC 31.8%。同年4月のBroadcasting誌の全国集計でもABC 33.5%・CBS 35.9%・NBC 30.6%と、3局合計はほぼ96〜98%に達していた。この時代は「黄金時代」として記憶され、人気番組と司会者・スターが視聴者を引いた結果だと語られてきた。1950年代末からEBSCOの業界史概観が「1950年代から1970年代にかけて3局が米国テレビ視聴の90%超を占め続けた」と記すのも、この物語の延長にある。
番組の質が視聴率を左右したこと自体は間違いではない。だが「なぜ競合できる第4局が現れなかったのか」という、もう一段手前の問いには、番組の質では説明がつかない答えが用意されていた。
1952年4月、FCC(連邦通信委員会)は4年間のテレビ局新設凍結を解く「Sixth Report and Order」を発表する。全米1,200以上のコミュニティに2,000超の周波数を割り当て、VHF12チャンネルとUHF70チャンネルを組み合わせる全国計画だった。問題は割り方の中身で、FCCは同一市場にVHFとUHFを混在させる「intermixture」政策を採った。主要都市のVHFスロットの大半はすでにNBC・CBS・ABC系列局に渡っており、残るUHFは技術面で大きく劣っていた——当時の受像機の多くはVHF専用で、UHFを受信するには外付けコンバーターか改造チューナーが必要だった。
元FCC委員James Quelloは後年、この決定の直接の結果として「第4のテレビネットワークが廃業し、UHFの発展が阻害された」と振り返っている。
実際に割当の歪みで最初に消えたのが、当時存在した第4のテレビネットワーク、DuMontだった。FCCのSixth Report and Orderにより大半の市場でVHFが2〜3局分に絞られた結果、DuMontは系列局の番組編成をUHFに依存せざるを得なくなる。UHF局は受像機が対応していないため視聴者がほとんどつかず、免許を返納する局が相次いだ。資金繰りに窮したDuMontは1954年末、唯一の収益局だったVHFのWDTVピッツバーグを売却。1955年4月から番組編成が崩れ始め、同年9月23日に最後のレギュラー番組が放送され、1956年8月に完全停波した。
UHFを法的に救済したのは1962年成立・1964年4月施行の「All-Channel Receiver Act」だった。以降に作られる全てのテレビ受像機はチャンネル14〜83(UHF)を受信できるチューナーの搭載が義務化され、Sponsor誌の報道ではこの対応で受像機の価格が約20ドル上がるとメーカーが見積もっていた。だがDuMontの消滅から数えて、法律がUHFを「見える」局に戻すまでに12年かかっている。そしてこの12年の空白は、法律が直った後も実質的な意味を持ち続けた——UHFを基盤にした新しい全国ネットワークが実際に軌道に乗るのは、Fox(1986年開局)までさらに20年以上待つことになる。
「3局が番組の質で勝った」という話と、「4局目が周波数の割り方で最初から負けていた」という話は、同時に正しい。前者だけが語られてきた。
1960年代のテレビは、普及率95%・1日5時間超の視聴という「豊かな娯楽の時代」として記憶される。だがその3局寡占という構造そのものは、番組制作の優劣ではなく、1952年のある行政決定——どの都市にVHFを何局割り当て、どこをUHFで埋めるか——によって、競争が始まる前から大きく形づくられていた。DuMontが消えたのは番組が劣っていたからではなく、割り当てられた周波数が受像機に映らなかったからだ。
この連載は次回、さらに10年遡る。1950年代、テレビがラジオ・映画・読書の時間を初めて本格的に奪い始めた時代だ。前回扱った1970年代のPong特許戦争、1980年代のゲーム機バブル崩壊とあわせて読むと、新しいメディアの勝者は常に「見える物語」の裏に「見えない構造」を抱えているという、この連載を通じた一つの法則が見えてくる。続きは次回。
本記事の要約・引用元。
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