1983年、北米のゲーム市場は32億ドルから1億ドルへ、2年で97%近く消えた。「粗悪なゲームが業界を殺し、任天堂が品質管理で救った」——この物語は、ファミコン発売日に遡ると少し違う形をしている。
「犯人」とされたE.T.の実際の規模(発掘調査で判明した728,000本)、ファミコン発売直後に任天堂自身が直面した全数リコール、そしてNintendo Entertainment Systemの「シール」が技術的に守っていたのは品質ではなくロイヤルティだったという構造を、一次資料で確認する。
1982年、北米の家庭用ゲーム市場は約32億ドル規模に達していた。それが1985年には約1億ドルまで落ち込む。わずか数年で97%近い売上が消えた、「ビデオゲーム・クラッシュ」と呼ばれる崩壊だ。
この崩壊の「犯人」として最も有名なのは、1982年に発売されたAtariの『E.T. the Extra-Terrestrial』だ。あまりの不評で、数百万本が埋められたという都市伝説まで生まれた。だが2014年、ニューメキシコ州の埋立地で実際に発掘調査が行われ、関係者が確認した埋設数は728,000本——都市伝説が語る規模ではなく、クラッシュ全体の一因にすぎないことを裏付ける数字だった。
1983年、Goldman Sachsのアナリストはゲーム需要が前年比100%増えたと分析する一方、各メーカーの生産量は175%も増えていたと指摘した。需要の伸びを大きく超える供給が、在庫と値崩れを生んだ。
Atari 2600にはライセンス制度がなく、品質を審査する仕組みも存在しなかった。玩具メーカーから無関係の企業まで次々と参入し、粗悪なゲームが棚を埋めていった。
Commodore 64のような低価格パソコンがゲーム機と競合する価格帯に入り込み、「ゲームも作れる汎用機」が専用機の市場を切り崩した。
E.T.が単独で業界を沈めたわけではない。供給過剰・品質管理の欠落・パソコンとの競合が重なった、構造的な崩壊だった。
1983年7月15日、任天堂はファミコンを発売した。ところが発売直後から、ゲーム中に画面が固まるという不具合の報告が全国の店頭・家庭から相次ぐ。原因は搭載チップの設計上の欠陥だった。
任天堂は市場に出ているファミコンを全数リコールし、マザーボードを無償で交換する対応に踏み切った。北米の市場を壊したのが「品質管理の欠落」だったのと、構造としては同じ種類の失敗——ただし任天堂は、それを自社の製品で、発売直後に経験していた。
後に「品質のシール」をアメリカに売ることになる会社が、発売の数週間後には自社の製品で同じ種類の問題に直面していた。
1985年1月のCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)で、任天堂はファミコンを下敷きにした家庭用コンピュータ兼ゲーム機「Advanced Video System」を発表する。だが反応は乏しく、構想は事実上頓挫した。
問題は技術ではなく、市場の空気だった。1983年のクラッシュで大量の不良在庫を押し付けられた玩具店・小売店は、「ビデオゲーム」という言葉そのものを避けるようになっていた。任天堂の答えは、言葉を変えることだった。本体の名称を"Entertainment System"とし、ロボット玩具R.O.B.と光線銃を同梱して「これは子ども向けの新しい玩具だ」という印象を作った。1985年秋、ニューヨークでの試験販売では、小売店に「前払い不要・売れ残りは全量引き取り」という条件を提示し、リスクをすべて任天堂側が引き受けた。
復活の最初の一歩は、新しいチップでも新しいゲームでもなく、「これはビデオゲームではない」と小売店に信じさせる営業条件だった。
任天堂はNESのカートリッジに"Official Nintendo Seal of Quality"を掲げた。だがこのシールを技術的に実装していたのは、10NES(通称ロックアウトチップ)という部品だ。このチップを持たないカートリッジは、NES本体でそもそも起動しない。
ライセンス契約の実際の条件は、品質審査という建前以上に厳しいものだった。カートリッジの製造は任天堂が独占し、1社が出せるタイトル数は年5本まで、さらに2年間は他機種への供与を禁じる専属契約を求めた。この仕組みは、市場に出回るカートリッジ1本ごとに任天堂へロイヤルティが入ることを技術的に保証する装置でもあった。
1987年、Atari Gamesは不正な手段で10NESの設計情報を入手し、ロックアウトチップを模倣した自社ブランドTengenでカートリッジを発売する。任天堂はこれを提訴し、裁判所はリバースエンジニアリング自体はフェアユースと認めつつも、虚偽の申請で設計情報を得た点でAtari側の著作権侵害を認定、Tengenは事業停止に追い込まれた。だがこの訴訟と並行して司法省・複数州・連邦取引委員会(FTC)が任天堂のライセンス慣行を調査し、1991年4月、FTCとの和解が成立する。調査の最中に任天堂は2年間の専属契約条項を自ら撤廃し、和解では1988年6月〜1990年12月にNESタイトルを購入した全顧客に5ドルの割引券を送付することになった。
「品質」という言葉が実際に機能していたのは、ゲームの出来を保証する方向ではなく、任天堂が1本残らず課金できる方向でだった。
1988年、北米のゲーム市場は約23億ドルまで回復する。だがこの回復は、競争が戻ってきた結果ではない。同じ1988年、任天堂は北米市場の約70%を単独で占めていた。1989年には市場規模34億ドルのうち75〜80%がなお任天堂のシェアだったとされる。
復活を支えたのは、技術的な「品質」の改善だけではない。小売の不信を解く変装(ロボットという皮)、1本ごとに課金が保証されるライセンス構造、そして任天堂自身が発売直後のリコールで学んだ品質管理の重さ——この3つが重なって初めて成立した回復だった。「粗悪なゲームが業界を壊し、品質管理が業界を救った」という物語は、間違いではないが、独占というもう一つの顔を覆い隠してしまう。
この連載はこの先も10年単位で遡っていく。次に見るのは、ファミコンよりさらに10年前——カラーテレビの世帯普及が進み、Atariの『Pong』が世界初のアーケードゲーム産業を生んだ1970年代だ。前回扱った1990年代のレンタルビデオ帝国の崩壊、2000年代の音楽産業の所有離れとあわせて読むと、新しいメディア・制度は常に前の時代の不信・不良在庫・空白を埋めて登場するという、この連載を通じた一つの法則が見えてくる。続きは次回。
本記事の要約・引用元。
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