「快楽を追うこと」と「良く生きること」は違う——アリストテレスは紀元前4世紀、快楽だけの人生を「牛の生き方」と切り捨てた。20世紀の心理学はこの区別を尺度に翻訳し、測定しようとした。だが7,000人・109カ国のデータで統計的に検証すると、2つの「幸福」はほとんど見分けがつかなかった。ただし、たった一つだけ、統計を超えて生き残った違いがある。
アリストテレス『ニコマコス倫理学』のエウダイモニア論と、それを尺度に翻訳したRyff(1989)の心理的well-being尺度・Diener流の主観的well-being(ヘドニア)という2つの操作化の歴史を追う。Kashdan, Biswas-Diener & King(2008)の批判と、Disabato et al.(2016、7,000人超・109カ国)が出した「潜在相関r=.96」という統計的にはほぼ同一という結果、それでも「生きがい(purpose in life)」という一成分だけがHill & Turiano(2014)・Cohen et al.(2016、13.6万人メタ分析)で死亡リスクへの独自の予測力を示すという例外、そして「遺伝子発現の違い」という有名な生物学的証拠がBrown et al.(2014)の再解析で崩れた顛末までを扱う。
「今の生活にどれくらい満足していますか、0〜10で」——世界価値観調査もOECDの幸福度ランキングも、多くはこの一問(Cantril Ladder型)を土台にしている。だがこの一問が捉えているのは、あくまで今この瞬間の主観的な評価だ。「意味のある人生を送れているか」「自分の可能性を発揮できているか」という問いは、ほとんど別枠として扱われる。
この2つを最初に明確に切り分けたのは、経済学でも心理学でもなく、2300年以上前の哲学者だった。アリストテレスは「快楽を得ること」と「良く生きること」を、はっきり別の概念として区別していた。この区別は今もwell-being研究の理論的な土台であり続けている。だが、それを実際に尺度として測定してみると、話は哲学が想定したより込み入っていた。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第1巻で、エウダイモニア(eudaimonia、「幸福」「良く生きること」「flourishing」などと訳される)を、快楽の量とはまったく違う形で定義した。
アリストテレスの定義は「完全な人生における、徳にかなった魂の活動」というものだ(第1巻第7章)。ポイントは、これが状態ではなく活動だと明言している点にある。幸福とは一時的に感じる気分ではなく、理性を働かせて何かを継続的に行うプロセスそのものだという主張だ。
アリストテレスは同じ第1巻で、快楽こそが幸福だとする立場(ヘドニズム)を名指しで退けている。快楽だけを追い求める人生は「牛にもふさわしい生き方」であり、人間の理性的な機能を発揮していないと切り捨てた。快楽が幸福に何らかの形で伴うことは否定していないが、快楽そのものを幸福の定義にすることを明確に拒んでいる。
論拠は、人間には理性という固有の機能があり、その機能を卓越した形で発揮すること(徳)こそが幸福だ、というものだった。快楽は感覚さえあればどんな動物でも得られるが、理性にかなった活動は人間だけができる。この「機能に基づく幸福」という発想が、2300年後の心理学に、驚くほどそのままの形で受け継がれることになる。
20世紀後半、心理学者たちはアリストテレスの区別を、実際にアンケートで測定できる尺度に翻訳しようとした。ここで生まれたのが、2つの異なる測定の系譜だ。
心理学者キャロル・リフは、アリストテレスの哲学・人生発達理論・臨床心理学の知見を統合し、「心理的well-being(Psychological Well-Being、PWB)」尺度を開発した。自己受容・他者との肯定的な関係・自律性・環境の統制力・人生の目的・personal growth(人格的成長)という6つの次元で構成され、「快楽の総量」ではなく「機能しているかどうか」を測ろうとする点で、エウダイモニアの心理学的な翻訳と位置づけられる。
一方、心理学者エド・ディーナーが体系化した「主観的well-being(Subjective Well-Being、SWB)」は、生活満足度・ポジティブ感情の多さ・ネガティブ感情の少なさという3要素で構成される。「今の人生をどう評価しているか、どんな気分で過ごしているか」を測るという点で、こちらはヘドニアの心理学的な翻訳にあたる。GDPも、多くの国際幸福度ランキングも、実質的にはこの系譜の簡易版(1問だけの生活満足度)を使っている。
Huta & Waterman(2014)は、両者の概念整理を試みたレビューで、エウダイモニアを「本来感・意味・卓越性・成長」の4要素、ヘドニアを「快楽・安楽」の2要素に整理した。だが同時に、「hedoniaとeudaimoniaの両方を統合した理論的・実証的な新しい視座も、統一された普遍的な測定法も、いまだに存在しない」とも結論づけている。半世紀以上研究が積み重ねられても、2つの幸福は別々の物差しのまま、統合されていなかった。
哲学は2つを明確に切り分け、心理学は2つの異なる尺度を作った。では、実際に測定したデータの上で、この2つは本当に別の構成概念として振る舞っているのか——ここに疑問を投げかけたのが、2008年以降の一連の再検証だった。
心理学者トッド・カシュダンらは、エウダイモニア研究を広く批判する論文を発表した。彼らの主張は、「哲学に根ざした区別が、科学的な測定にそのまま持ち込めるとは限らない」というものだ。エウダイモニアという概念自体の定義が研究者ごとに揺れており、一貫した測定法がないこと、そして実証的にはヘドニアとエウダイモニアの well-being が概念的に重なり合い、同じ心理メカニズムの表れである可能性を指摘した。
この疑問に大規模データで決着をつけようとしたのが、Disabato, Goodman, Kashdan, Short & Jarden(2016)だ。109カ国・7,000人超のサンプルで、Ryff流の心理的well-being(エウダイモニア)とDiener流の主観的well-being(ヘドニア)が、統計的に1つの構成概念なのか、2つの別々の次元なのかを検証した。結果は、両者の潜在相関はr=.96。心理統計の慣習では、これは「弁別的妥当性(discriminant validity)がほぼない」——つまり、別の概念として扱う統計的な根拠がほとんどない水準の一致度だった。
2300年語り継がれてきた「2つの幸福」は、統計的には1つの因子の言い換えに近かった。好奇心・感謝といった性格特性との相関パターンも、両者でほぼ同じだった。唯一の例外は、目標達成への意志(希望)・意味志向・grit(やり抜く力)との相関で、ここだけわずかに違いが出た。
統計的にはほぼ同一の因子だとしても、それで話が終わるわけではない。エウダイモニアの中でもごく狭い一成分——「人生の目的・生きがい(purpose in life)」だけが、ヘドニア側の指標を統制してもなお独自に予測する結果がある。それが、生存そのものだ。
米国の全国パネル調査MIDUSのデータを使い、生きがいの強さが14年間の死亡リスクを予測するかを検証した研究では、生きがいのスコアが1標準偏差高いごとに、死亡リスクが15%低下する(ハザード比0.85)という関係が確認された。重要なのは、この効果がポジティブ感情・ネガティブ感情・他者との良好な関係というヘドニア側の指標を統制してもなお有意に残ったこと。効果は年齢や退職の有無にかかわらず一貫していた。
10件の前向きコホート研究・計13万6,265人を統合したメタ分析では、生きがいの強さが高い群は、全死因死亡リスクが17%低く(相対リスク0.83)、心血管イベントのリスクも同じく17%低いという結果が出た。単一研究の偶然ではなく、複数の独立したコホートで繰り返し確認された頑健な関連だった。
この違いをめぐっては、もっと劇的な主張も存在した。Fredrickson et al.(2013, PNAS)は、白血球の遺伝子発現を調べ、「エウダイモニア寄りの人は炎症関連の遺伝子発現(CTRA)が低く、ヘドニア寄りの人は逆に高い」という、細胞レベルでの分岐を報告し大きな話題になった。だがBrown, MacDonald, Samanez-Larkin, Friedman & Coyne(2014)が同じデータを再解析したところ、元論文が主張した2因子構造(エウダイモニア因子・ヘドニア因子)はデータから再現できず、妥当な因子解はいくつも存在するがどれも元の主張とは一致しないと結論づけた。「幸福の種類で細胞レベルの反応まで変わる」という魅力的な物語は、統計的な検証には耐えなかった。
派手な生物学的証拠は崩れたが、地味な疫学的証拠は繰り返し再現された。「良い気分でいること」自体は生存を予測しないが、「自分の人生に目的があると感じること」は、複数の独立したコホートで一貫して生存を予測した。統計的にはほぼ同じ因子の中に、たった一つだけ、統計を超えて生き残った違いがあったことになる。
アリストテレスの主張——快楽と良く生きることは別物だ——は、20世紀の心理測定によって、統計的にはほぼ同じ構成概念だと判定された。哲学的には2つに切り分けられても、人がアンケートに答える段階では、両者はかなりの部分、同じ心理状態の表れになってしまう。
だが「意味がなかった」わけではない。エウダイモニアという大きな括りの中でも、「生きがい・人生の目的」というごく狭い一成分だけが、ヘドニア側の指標では説明できない予測力を持っていた。GDPも、多くの幸福度調査も、この成分をほとんど拾えていない。数字に映るのは「今日の気分」がほとんどで、「何のために生きているか」は、統計的にはほぼ同一視されてきた大きな概念の中に、ひっそりと埋もれたままになっている。
これは、以前扱ったショーペンハウアーの幸福論(苦痛の穴埋め説)・ニーチェの運命愛に続く、哲学者の幸福論シリーズの3本目にあたる。前2作が「苦痛への態度」を扱ったのに対し、本作は「幸福の定義そのものが1種類か2種類か」という測定論の話であり、量と質の対立を社会全体の幸福度指標の設計として扱ったベンサムとミルの功利主義論争とも隣接するが、あちらは社会レベルの制度設計、こちらは個人の心理測定という点で角度が異なる。
「幸福には2種類ある」という2300年前の主張は、統計の前ではほぼ1種類に収束した。それでも収束しきらなかったわずかな隙間の中に、生死を分けるだけの重みが残っていた。
本記事の要約・引用元。哲学の原典と、それを測定・検証した実証研究を対応させている。
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