「あの経験があったから、今の自分がある」。この感覚は本当に苦痛を軽くしているのか、それとも軽くなったと錯覚しているだけなのか。ニーチェが「運命愛」として立てた150年前の哲学的賭けを、20世紀の心理学は数値で検証しようとした。だが実際にデータを取ってみると、話はニーチェが想定したよりずっとねじれていた。
ニーチェの「運命愛(amor fati)」という哲学的主張と、それを実証しようとした心理学の「心的外傷後成長(PTG)」研究の50年史を並べる。Tedeschi & Calhoun(1996)のPTGI開発から、Frazier et al.(2009)の「自己報告の成長は、実測した変化とほぼ無関係だった」という反証、Shakespeare-Finch & Lurie-Beck(2014)の「成長は中程度の苦痛でピークを迎える」という曲線関係まで、哲学の仮説が実証研究でどこまで裏切られ、どこで生き残ったかを追う。
失業、離婚、大病、災害——同じ出来事を経験しても、その後の語り方は人によってまったく違う。「あれで人生が終わった」と語る人もいれば、「あれがあったから今の自分がある」と語る人もいる。統計の上では、両者は同じ1件の「失業」「離婚」としてしか記録されない。
幸福研究がこれまで扱ってきたのは、主に出来事の量と幸福度の関係だった。だが「同じ量の苦痛でも、意味づけ次第で軽さが変わるのではないか」という問いは、量の外側にある。この問いに150年前、最も大胆に賭けたのがニーチェだった。
ニーチェは苦痛の量を減らすことを説かなかった。説いたのは、苦痛への態度を変えることだった。
ニーチェは『この人を見よ』(Ecce Homo, 1888)の中で「私の偉大さの公式はamor fati(運命愛)だ。何ひとつ、これまでと違ったものであってほしくない——前へ向かっても、後ろへ向かっても、永遠に」と書いた。すでに1882年の『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft)第276節でも、「必然であるものを美しいと見ることを、もっと学びたい」と、同じ主題を先取りしている。苦痛や不運を含めた自分の人生全体を、後悔ではなく「望むもの」として引き受けるという構えだ。
同じ『悦ばしき知識』第341節でニーチェが投げかけた問いはさらに過酷だ。「もし今の人生を、細部まで寸分違わず、無限に繰り返さなければならないとしたら、お前はそれを望めるか」。amor fatiは、この問いに「イエス」と答えられるかどうかを試す、いわば思考実験としての踏み絵だった。苦痛の量を計算して差し引くのではなく、苦痛を含めた人生全体を丸ごと引き受けられるかという、量ではなく態度の問題として再定義したところに、ニーチェの賭けの独自性がある。
この哲学的主張に、20世紀最大の臨床的傍証を与えたのが精神科医ヴィクトール・フランクルだった。強制収容所での体験を綴った『夜と霧』(原題は独語で「それでも人生にイエスと言う」、英題 Man's Search for Meaning, 1946)で、フランクルは「なぜ生きるかを知っている者は、ほとんどどんな『どう』にも耐えられる」というニーチェの言葉を引きながら、極限状況下で意味を見出せた人ほど精神的に持ちこたえたと観察した。ここから彼が体系化したのが、「意味への意志」を核とするロゴセラピーである。ただし、この段階ではまだ臨床的な観察であり、大規模な追跡調査による実証データではない。
ニーチェの哲学的主張、フランクルの臨床的観察——ここまでは検証可能な仮説ではなく、いわば思想だった。これを測定可能な仮説に変えたのが、心理学者Tedeschi & Calhoun(1996)である。
Tedeschi & Calhoun(1996)は、「新たな可能性」「他者との関係」「人間的強さ」「精神的変化」「人生への感謝」の5因子・21項目からなるPosttraumatic Growth Inventory(PTGI)を開発した。トラウマ体験を経た人に「あの経験を通じて、あなたはどう変わったと思うか」を自己申告してもらう質問紙だ。これで初めて、「苦痛にどんな意味を与えたか」という哲学的な問いが、スコア化できる仮説になった。
Frazier, Tennen, Gavian, Park, Tomich & Tashiro(2009)は、大学生を対象に外傷体験の前後2回、同じ心理尺度で実際の変化を直接測定するという、当時としては珍しい追跡調査を行った。外傷イベントを経験した122人について、PTGIの自己申告スコアは、実際に測定された変化とほぼ無相関だった。さらに奇妙なことに、「自分は成長した」という知覚された成長は苦痛の増加と相関し、実際に測定された成長は苦痛の減少と相関するという、正反対の方向を向いた結果になった。「成長したと感じること」と「実際に何かが変わること」は、別の現象だった可能性が高い。
Jayawickreme & Blackie(2014)は、PTG研究の大半が人格心理学の知見を十分に取り込まずに進められてきたと批判し、事後の自己申告という手法そのものが持つ限界を指摘した。自己高揚的な前向きの錯覚(positive illusion)や、つらい記憶を都合よく再解釈する積極的コーピングと、「本物の成長」を、自己申告のアンケートだけで見分ける方法がないのだ。
「意味づけたと思うこと」と「実際に変化すること」は、別物だった。ニーチェの賭けを最も素直に測定しようとした研究が、まさにその測定方法の土台を崩すという結果を出した。
では、amor fatiの仮説は完全に否定されたのか。ここが本記事のねじれ所だ。自己申告PTGの妥当性には疑問符がついた一方、大規模なメタ分析はもう少し込み入った構造を示している。
Helgeson, Reynolds & Tomich(2006)は、恩恵発見(benefit finding)と成長に関する87の研究をまとめたメタ分析を行った。結果は一枚岩ではなかった。恩恵発見はうつの少なさ・良好な心理的健康と関連する一方、つらい出来事についての侵入的な思考や回避的な思考の多さとも関連していた。「意味を見出せた人は苦痛が消える」という単純な話ではなく、意味づけと苦痛の反芻が同居する、ねじれた併存関係が実証された。
Shakespeare-Finch & Lurie-Beck(2014)は、心的外傷後ストレス症状(PTS)の強さとPTGの関係を扱った研究をメタ分析し、両者が直線的ではなく曲線的な関係にあることを示した。PTGが最も高くなるのは、PTS症状が中程度の水準にある人たちで、症状がごく軽い人ではそもそも意味づけの材料となる苦痛が乏しく、症状が非常に重い人では苦痛が意味づけの処理能力を上回ってしまう。「どんな苦痛でも意味づければ軽くなる」のではなく、意味づけが機能する苦痛の帯域には上限と下限がある、という結論だ。
amor fatiは万能の処方箋ではなかった。苦痛が軽すぎれば意味づける動機がなく、重すぎれば意味づける余力がない。ニーチェの永劫回帰の思考実験に「イエス」と答えられる帯域は、思いのほか狭かった。
ニーチェの哲学的主張そのものは、実験で直接反証も証明もできない性質のものだ。だが、それを測定可能な仮説に翻訳した心理学の50年は、単純な「イエス」よりずっと入り組んだ答えを返してきた。「成長したと感じること」自体は、実際の変化の指標としては当てにならない。だが「意味を見出す」という営みは、苦痛を消すのではなく苦痛と同居する構造として、中程度の苦痛の範囲でだけ機能する。
これは、以前扱ったショーペンハウアーの幸福論(「幸福とは、苦痛の穴埋めにすぎない」)とちょうど鏡合わせの関係にある。ショーペンハウアーは「苦痛の量そのものを減らす」ことでしか幸福は測れないと考えた厭世的な立場だった。ニーチェは逆に、苦痛の量には手を付けず、苦痛への態度を変えることで生の質を変えられると賭けた。実証研究が示したのは、その賭けが部分的には当たっていたが、「意味づけた」という自己申告そのものは、その賭けの結果を測る物差しとしては信頼できない、という皮肉な結末だった。GDPも幸福度調査も、この「意味づけの分布」を数えることはできない。数えられるとしても、それが本物かどうかを見分けるのに、心理学はまだ手を焼いている。
「あれがあったから今の自分がある」という言葉を、疑う必要はない。ただしそれが「本当に何かが変わった」証拠なのか、「今の苦しさ」が語りに滲み出ているだけなのかは、語っている本人にも、外から見ている誰にも、簡単には判別できない。
本記事の要約・引用元。哲学の原典と、それを検証した実証研究を対応させている。
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