200年前の人々は、幸せだったのか? アンケートも、まとまった日記も残っていない。それでも研究者たちは、彼らの気分を数字にしてしまった——数百万冊の書籍と新聞に残された、言葉づかいから。誰ひとり「幸福度を記録しよう」とは思っていなかった。だからこそ、その言葉は正直だった。第1回で置いた「絶対的な尺度は存在する」という約束を、まず"言葉"の側から果たしていく。
アンケートのない過去の幸福度を測る、「国民の感情指数」という発想。数百万冊の本の中のポジティブ/ネガティブ語の比率から、200年分の気分を復元する手法。そして意外な発見——英国史上いちばん不幸だったのは、世界大戦のさなかではなかった。言葉は、統計が見落としてきたものを覚えている。
現代の幸福度は、世界幸福度報告のようにアンケートで測る。「想像できる最高の人生を10点、最悪を0点として、今あなたは何段目?」と世界中で同じ問いを投げ、比べる。だが——この方法には、決定的な弱点がある。過去の人には、質問できない。
ルイ14世に「今、何点ですか?」とは聞けない。中世の農民も、19世紀の工場労働者も、アンケート用紙を残してはいない。では、彼らが幸せだったかどうかを、私たちはどうやって知ればいいのか。
ここからが、経済史家たちの探偵仕事だ。彼らは「本人が答えてくれない幸福度」を、まったく別の場所に残された間接的な痕跡から復元しようとする。今回のカギは、当時の人々が無意識に書き残していった言葉だ。
2019年、ウォーリック大学などのチームが Nature Human Behaviour 誌で、鮮やかな方法を発表した。人は幸せなときと不幸なときで、使う言葉の種類が変わる。この心理学的な事実を、過去200年ぶんの数百万冊の書籍・新聞のデジタルデータに当てはめたのだ。
手順はこうだ。「ポジティブな言葉」と「ネガティブな言葉」の比率を年ごとに数値化し、英・米・独・伊について National Valence Index(国民の感情指数) を作る。それを現代のアンケート結果とドッキングさせることで、過去の気分を現代の基準に換算してしまう。
# National Valence Index のつくり方(概念)
古い本・新聞のデジタル化 → 数百万冊のテキスト
ポジ語 ÷ ネガ語 の比率 → 年ごとの「気分」スコア
現代のアンケートと接続 → 過去200年を現代基準に換算
ここが美しい。当時の書き手は、誰ひとり「幸福度を記録しよう」とは思っていなかった。ただ本を書き、新聞を刷っただけだ。にもかかわらず、その言葉づかいの片隅に、その時代を生きた人々の気分が化石のように閉じ込められていた。
この指数は、歴史上の出来事にきれいに反応した。そして、私たちの直感を裏切る発見をいくつも掘り当てた。
指数は戦争や不況にはっきり沈んだ。研究チームは幸福度の変化を、寿命やGDPの変化に換算して示している。戦争がもたらす精神的なダメージは、私たちが漠然と思うよりずっと大きく、そして長く尾を引くことが、言葉の統計から浮かび上がった。
いちばんの驚きがこれだ。過去200年で英国の幸福度が最も低かったのは、二度の世界大戦のさなかではない。配給制が終わり期待が高まった1950年代のあと、幸福度はじりじり下がり続け、ストライキとインフレにまみれた1970年代末の「不満の冬(Winter of Discontent)」で底を打った。危機の"種類"によって、心の傷み方はまるで違う。
戦時より、不満の冬。爆撃と配給の時代を、人々は「共通の敵に立ち向かう物語」の中で耐えた。だが、ストとインフレで社会が内側からきしむ時代には、その物語がなかった。外からの危機より、内からの停滞のほうが、言葉を暗くする——数字ではなく言葉だからこそ拾えた機微だ。
なぜ、こんな回りくどい方法が信頼できるのか。答えは、誰も操作していないからだ。
アンケートには「よく見せたい」バイアスが混じる。政府の発表には都合がある。だが、100年前の小説家が選んだ形容詞や、新聞記者が書いた見出しの語調は、後世に幸福度を測られるとは夢にも思わずに書かれたものだ。だからこそ、そこには時代の素の気分が残っている。第1回で言った「絶対的な尺度」とは、まさにこういう道具のことだ。相対的な印象論ではなく、言葉の統計という動かせない痕跡で測るから、「あの時代は本当に沈んでいた」と言い切れる。
言葉は、正直だ。それは「昔より今は幸せ」という心地よい物語を裏付けることもあれば、「戦後の繁栄のさなかに気分は底を打っていた」という不都合な事実を突きつけることもある。願望ではなく痕跡に語らせているからこそ、この物差しは信頼に値する。
ここで、原研究の結果と私たちの小さな実験を分けておく。青空文庫の公式ページで確認できる6作品の短い公開抜粋だけを使い、年代群ごとに、肯定語・否定語・幸福関連語の出現率を数えた。測っているのは日本人の幸福度ではなく、選んだ作品抜粋の語彙傾向である。
数値は各カテゴリの辞書語ヒット数 ÷ 除外後の日本語文字数 × 1,000。カテゴリは独立集計のため、同じ語が複数カテゴリに数えられることがある。
辞書は肯定13語、否定16語、幸福関連10語。句読点・空白・ルビ・書誌情報は除外し、本文抜粋の旧字体・旧仮名は主分析で保持した。旧字体などを Unicode NFKC で正規化する版、抽象的な語を減らした保守辞書版、作品を1本ずつ外す leave-one-out 版も同じスクリプトで出力している。
この小さな表は、仮説を「証明」するものではない。実際、太宰の抜粋を外すと1920〜30年代の肯定語・幸福関連語は0になり、宮沢の抜粋を外すとその率は大きく変わる。表が教えるのは、作品選定と場面選定に結果が強く依存するということだ。
この数字から言えること。今回の6抜粋では、年代が進むほど幸福になった、とは言えない。言えるのは、選んだ抜粋に含まれる語の比率が群によって違ったこと、そしてその違いが小標本では簡単に消えることだけだ。原研究の英国などの大規模指数と、今回の日本語パイロットを混同してはいけない。
入力一覧、抜粋、辞書、Pythonスクリプト、群別CSV、感度分析JSON、SVG図を evidence/ に保存した。本文抜粋の出典はすべて青空文庫の公式ページで、各ページに底本・公開日・青空文庫作成ファイルの記載がある。全文の再配布や大量取得は行わず、公開ページで確認できる短い抜粋だけを使った。
200年前を生きた人々の喜びや不安は、とっくに消えた。当人たちに、もう何も聞けない。それでも彼らが残した膨大な言葉の海を統計にかければ、その時代の気分が、驚くほど鮮明に立ち上がってくる。歴史は、感情の記録を残さなかったのではない。ただ、意図せぬ形で残していただけだ。
幸福を測る物差しは、思っているよりずっとたくさんある。言葉は、そのうちのひとつにすぎない。次回は、言葉すら残っていない、もっと古い時代へ潜る。使うのは——土から掘り出した、人骨の身長だ。身体そのものが、その時代の生活の質を物語る。しかもそれは、「時代が進むほど人類は豊かになった」という常識を、静かに裏切ることになる。
今日、あなたが打ったその言葉も。100年後の誰かにとっては、2026年の気分を測るひとかけらのデータかもしれない。私たちは、生きているだけで、時代の感情をこっそり書き残している。
本記事の要約・引用元。数値・解釈は各文献の概要に基づく。
連載の主要記事を1冊に再構成し、書き下ろしを加えたKindle本です。数字では測りにくい豊かさを、所得・時間・関係・自由の視点から読み直します。
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