1808年、江戸の貸本屋は656軒——当時の江戸の銭湯の軒数を上回っていたとされる。1830年代には800軒を超え、全国では700〜800軒が推定10万人以上の読者に本を貸し出していた。歌舞伎は中村座・市村座・森田座という幕府公認の三座が興行を独占し、錦絵は版元たちの組合が内容と値段を自ら管理していた。だがこの"市場"は、1841年から1843年までの天保の改革のわずか2年間で、三つとも同時に幕府の直接統制下へ置かれることになる。
貸本屋656→800軒という軒数の伸び、レンタル価格が購入のおよそ6分の1という安さ、歌舞伎三座の1714年以来の独占興行という"自由に見える市場"の輪郭を確認したうえで、1841〜43年の天保の改革が、劇場の強制移転・出版統制の組合解散・人気作家の処罰と版木破却という三つの手段で、同時にこの複製娯楽網を締め上げていたという構造を一次資料で追う。
1808年(文化5年)の記録『画入読本外題作者画工書肆名目集』によれば、江戸府内の貸本屋は656軒。英語圏の江戸研究サイトSamuraiWikiは、この数が当時の江戸市中の公衆浴場(銭湯)の軒数を上回っていたと伝えている。読み書きの娯楽が、入浴という生活必需のインフラより高い密度で江戸の町に存在していたことになる。
656軒という数字は1830年代(天保期)には少なくとも800軒に増えた。全国でみると、江戸時代末期までに700〜800軒の貸本業者が営業し、合わせて推定10万人以上の読者に本を届けていたとされる。1軒あたりの顧客基盤は平均150〜200世帯程度と見積もられており、店舗を構えるだけでなく、得意先を巡回する「貸本持ち歩き」という訪問販売の形態も広く行われていた。
歴史家イーコ・イケガミは『Bonds of Civility』(2005年)の中で、貸本の賃貸価格は購入価格のおよそ6分の1だったと推計している。薄手の黄表紙1冊を借りる値段は16文未満——そばの一杯よりは安いが、銭湯の入浴料よりは高い、という値段感覚だったという。所有するより借りる方が圧倒的に安いという構造は、現代のサブスクリプションサービスと同型に見える。
貸本屋だけではない。同じ時代、歌舞伎と錦絵もまた、庶民の手に届く複製娯楽として栄えていた。
656軒・800軒・10万人という数字は、確かに「市場が娯楽を安く行き渡らせた」ことを示している。だが、その市場がどういう仕組みの上に立っていたのかを見ると、話は少し違ってくる。
江戸で本格的な歌舞伎(大芝居)を常設で興行できたのは、幕府から官許を得た中村座・市村座・森田座の三座だけだった。元禄期には山村座を含め四座あったが、正徳4年(1714年)の江島生島事件で山村座が廃絶し、以降明治に至るまで興行は三座に限って公認された。それ以外の芝居小屋は、寺社奉行の支配下で100日限りの興行を許される「小芝居」「宮地芝居」の扱いにとどまった。
中村座は中村勘三郎家、市村座は市村羽左衛門家、森田座は森田勘弥家が、それぞれ代々座元として興行権を保持した。座元が興行を続けられない時のために「控櫓」という代演の仕組みまで用意されており、興行権そのものが世襲財産として扱われていたことがわかる。
浮世絵版画(錦絵)の出版は、地本問屋仲間と呼ばれる版元たちの組合(株仲間)が担っていた。出版前には組合内部の検印(改印)を経ており、内容と価格の両方を組合自身がある程度自主的に規制する仕組みが機能していた。幕府が逐一検閲するのではなく、業界団体が自治的に秩序を保っていた、という体裁だった。
三座による独占興行、世襲の座元、組合による自主規制——これだけを見れば、江戸の複製娯楽は官許という土台の上で、あとは市場と業界団体の自治に任されていたように見える。だがこの土台は、幕府がいつでも書き換えられる免許にすぎなかった。
老中水野忠邦が主導した天保の改革(1841〜1843年)は、倹約と風俗粛正を掲げ、庶民生活全般を統制の対象にした。その手は、貸本屋が本を調達する先である歌舞伎・出版・人気作家という複製娯楽の三つの供給源に、ほぼ同時に伸びた。
天保12年(1841年)10月7日早朝、堺町の中村座から出火した火は葺屋町の市村座にも延焼した。両座は現地での再建を願い出たが、幕府はこれを認めず、天保改革の一環として三座まとめての移転を命じた。翌天保13年1月、移転先は浅草聖天町と決まり、同年4月に「猿若町」と改称された。市村座は1842年9月、中村座は同年10月に開演し、木挽町に残っていた森田座(河原崎座)にも同年12月に移転令が出され、翌年5月に移転先で開演した。移転に伴い、堺町・葺屋町の住人には5,500両、木挽町には2,700両の手当金が支払われている。世襲の興行権を持つ三座でさえ、立地を選ぶ権利までは持っていなかった。
天保13年(1842年)、水野忠邦は経済全般にわたる株仲間解散令の一環として、版元たちの組合(株仲間)を解散させた。それまで組合が自主的に担っていた内容・価格の管理は失われ、代わって美人画・役者絵の出版そのものが制限され、検閲は名主(町の行政責任者)による単独の検印に置き換わった(名主単印時代、1842〜1846年)。自主規制の組合が消え、検閲が幕府の末端行政に直接組み込まれた瞬間だった。
人情本の第一人者だった為永春水は、代表作『春色梅児誉美』が風俗を乱すものとされ、手鎖50日と版木破却の処分を受けた。版木——同じ版で何度でも刷れるようにする複製娯楽の実物資本——そのものを壊すことが処分の内容だった。春水はほどなく病に沈み、世を去ったと伝えられる。合巻の柳亭種彦も同じ改革で譴責を受けた。文政12年(1829年)から書き継がれ、大奥の奥向きを描いた大ベストセラー『偐紫田舎源氏』は、天保13年(1842年)の38編を最後に未完のまま中断させられ、種彦自身もその直後に世を去った(死因は病死説が有力だが自殺説も伝わる)。
劇場は立地を失い、組合は解散させられ、版木は壊された。複製娯楽を支えていたのは読者の数ではなく、興行の免許・組合の自治・印刷の原版という、幕府がいつでも手を入れられる3つの一点だった。
貸本屋656→800軒という伸び、購入の6分の1というレンタル価格の安さ、歌舞伎三座の繁盛、錦絵の自主規制——どの数字も、江戸の複製娯楽が市場として機能していたことを裏付けている。だがその内側では、劇場の立地も、出版の検閲方式も、版木という物理的な原版の生死も、すべて幕府の許可の範囲内にとどまっていた。1841年から43年までのわずか2年間で、幕府はその許可を、三つの複製娯楽から同時に、別々の方法で取り上げてみせた。
前回見た19世紀英国のミュージックホールが、1843年の演劇法という酒の免許と演劇の免許の二択構造によって、観客の好みではなく法律で形を決められていたのと同じように、江戸の複製娯楽もまた、市場の自由に見えて、最初から幕府の許可という土台の上にだけ立っていた。この連載は次回、さらに時代を遡り、戦国時代の茶の湯——名物茶器が「一国一城に値する」とまで評され、茶会そのものが大名間の政治装置になった時代を見る。続きは次回。
複製娯楽を安く行き渡らせたのは、市場の自由だけではなかった。その自由は、免許・組合・版木という3つの一点を幕府が握っている限りでの自由だった。
本記事の要約・引用元。
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