1851年の万国博覧会は、約167日間で600万人以上——当時の英国人口のおよそ3分の1に相当すると伝えられる——を集めた。同じ世紀、ブラックプールは人口2,500人の漁村から47,000人の保養地へ膨張した。だが同じ時代に生まれたミュージックホールが脚本のある演劇を一切上演せず、歌・踊り・寸劇の専門施設になったのは、観客の好みではなく、酒の免許をめぐる1843年の演劇法の規定だった。
万国博覧会の600万人動員・鉄道規制法による労働者向け格安列車・銀行休日法による新しい休日という「産業革命が大衆娯楽を生んだ」という数字を確認したうえで、ミュージックホールという最も代表的な娯楽形式が、実は『酒を売るか、演劇を上演するか』という二択を強制した1843年の法律構造によって決まっていたという、見えない制度設計を一次資料で追う。
1851年5月1日から10月15日まで、ロンドンのハイドパークに建てられたガラスと鉄の巨大建築クリスタル・パレスで、世界初の万国博覧会が開かれた。公式の記念記録によれば入場者数は6,039,195人。日本の国立国会図書館が整理した資料も約603.9万人(有料入場者のみの集計)としており、ある推計ではこの人数が当時の英国人口の約3分の1に相当すると伝えられている。最も混雑した1日では109,915人が入場したという記録も残る。
ブラックプールは、1846年にプレストン・フリートウッド鉄道からの支線が開通するまで、人口2,500人規模の小さな漁村だった。それが1881年には14,000人、1901年には47,000人に達し、「典型的な英国の海辺保養地」と評されるまでになった。鉄道でしか届かなかった土地に、鉄道が観光客を運び込んだ結果だった。
同じ時代、都市の酒場から派生したミュージックホールは、標準的な入場料が6ペンスで、私設ボックス席なら3シリングまで幅があった。1875年には大ロンドン圏だけで推定約375館が営業していたとされる。1855年に開業したカンタベリー・ホールは、1,500人を収容できる規模だった。
万国博覧会の600万人、ブラックプールの19倍の人口増加、ミュージックホールの375館。どの数字を見ても、産業革命は確かに「誰にでも開かれた娯楽」を初めて生み出したように見える。
数字だけ見れば、物語は完結している。だが、ミュージックホールという形式そのものの内側に目を移すと、別の力が働いていたことが見えてくる。
労働者が万博やブラックプールにたどり着けたのは、鉄道が自然に安くなったからではない。1844年の鉄道規制法は、各路線に1日最低1本、屋根付きの3等車を連結した列車を、最低時速12マイルで走らせ、運賃を1マイルにつき1ペニー以下に抑えることを義務付けた。これが「議会列車(Parliamentary train)」と呼ばれる制度で、それまで1等・2等しかなかった路線に、初めて労働者が払える値段の席を強制的に作った。
観光業の始祖とされるトーマス・クックが1841年7月5日に主催した最初の団体列車旅行は、レスター禁酒協会の会員約485人を、レスターからラウボローへ、1人1シリングの往復運賃で運ぶものだった。目的地は観光地ではなく、禁酒運動の集会だった。「大衆が楽しむための旅行」という発想より先に、「労働者を酒場から遠ざけるための旅行」という発想があった。
銀行休日法(1871年)は、イースター・マンデー、聖霊降臨祭翌日、8月第1月曜、(クリスマスが日曜の場合の)12月26日という4日間を新たに休日に加えた。ただし有給休暇ではなく、19世紀末になっても大半の労働者には銀行休日以外の有給休暇はなかったとされる。北部の紡績業の町では、町ごとに異なる週に工場が一斉休業する「ウェイクス・ウィーク」の慣行があり、これがブラックプールに夏の間絶え間なく観光客を送り込む仕組みとして機能した。
鉄道規制法が座席を作り、禁酒運動が最初の団体旅行を発明し、銀行休日法とウェイクス・ウィークが休む日をそろえた。ここまではまだ、「産業革命(と、それに伴う法整備)が労働者に移動と休暇を解放した」という物語の範囲内にある。
1843年より前、ロンドンで脚本のある「正統な演劇」を上演できたのは、1737年の法律によって認められたドルリー・レーン劇場とコヴェント・ガーデン劇場(のちにヘイマーケット劇場も夏季限定で追加)という、ごく少数の専売劇場だけだった。それ以外の小劇場や酒場は、せりふ劇を上演するために、音楽を挟んだ「バーレッタ」という形式でこの規制を回避していた。1843年の演劇法は、この専売の独占をようやく開放し、ロード・チェンバレン(宮内大臣)か地方治安判事の免許があれば、どの施設でも演劇を上演できるようにした。
地域史研究サイトWorcester People and Placesの記録によれば、酒場兼劇場(サロン)はこの二択に直面し、「合法劇場になるが客席で酒を売れない」道と、「酒を売り続けられるが演劇は上演できないタバーン・コンサートルームになる」道のどちらかを選ばざるを得なかった。そして後者こそがミュージックホールの親だったという。ミュージックホールが脚本のある芝居ではなく、独立した歌・コメディ・軽業といった演目の寄せ集め(ヴァラエティ形式)で構成されていたのは、観客がそれを好んだからというより先に、法律上「演劇」を名乗れなかったからだった。
同じ構造は、トーマス・クックの最初の旅行にも見える。前段で見た1841年の団体列車は、観光のための旅行ではなく、禁酒運動という「酒から労働者を遠ざける」道徳改革運動の集会輸送だった。ミュージックホールが酒の免許と演劇の免許の板挟みで形を決められたのと同じ時代に、旅行という手段そのものも、まず道徳改革の道具として発明されていた。
「誰もが楽しめる娯楽が生まれた」という物語の内側では、酒を売る権利と演劇を上演する権利が、同じ建物では両立しない二択だった。歌と踊りだけのミュージックホールは、客の好みが選んだのではなく、法律が選んだ。
万国博覧会の600万人、ブラックプールの19倍の人口増加、ミュージックホールの375館——どの数字も、産業革命が大衆娯楽を「誰にでも開かれたもの」に変えたことを裏付けている。だがその内側で、ミュージックホールという最も代表的な形式そのものは、観客の需要が自由に選び取ったのではなく、酒の免許と演劇の免許という1843年の法律上の二択によって、あらかじめ決められていた。
この構図は、前回扱った1900-1920年代のニッケルオデオン——観客が払う5セントは一定でも、裏側では特許トラストが配給網の98%近くを買い占めていた——と同じ系譜にある。見える数字(入場料・来場者数)は、見えない構造(法律・特許・免許)について何も語らない。この連載は次回、さらに時代を遡り、江戸時代の貸本屋が作り出した「所有よりレンタルの方が圧倒的に安い」という経済構造を見る。続きは次回。
大衆娯楽は、産業革命が自然に生んだ商品ではなかった。鉄道規制法・演劇法・免許制度という、目に見えない法の設計図のうえに立っていた。
本記事の要約・引用元。
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