1908年には推定8,000〜10,000館、1910年には週2,600万人という、当時の人口のおよそ3割を集めた「5セントの映画館」。だがその同じ時期、入場料を1円も払っていない製造・配給の側では、特許を握った会社群が全米の配給網をほぼ丸ごと買い占めていた。
蓄音機が1920年代に生産台数を約26倍(19万台→500万台)に伸ばして家庭の4〜5割へ広がり、ニッケルオデオンが週2,600万人を集めたという「誰にでも開かれた娯楽」の数字の裏で、1908年に結成された特許トラストが上映業者から使用料を取り、1910年から1912年にかけて全米58社中57社の配給網を買収・ライセンス剥奪していたという、見えない独占の構造を一次資料で追う。
1900年前後、蓄音機はまだ誰にでも買える品ではなかった。だが1920年代を通じて、それは量産品に変わっていく。業界の生産統計では、蓄音機の年間生産台数は1923年の約19万台から1929年には約500万台へ、6年で約26倍に伸びたと伝えられる。全米家庭の所有率も、1927年の全米女性クラブ連合の調査で約45%、Bill Brysonが集めた同年の推計(家庭2,680万戸のうち1,100万戸が所有)では約41%に達していた。都市部ではさらに高く、業界誌『Talking Machine』1927年8月号はオハイオ州ザンズビルの54%、調査対象36都市平均の58.9%という数字を伝えている。
同じ時期、より急進的に「安い娯楽」を体現していたのが映画だった。1905年前後から店舗を転用した小劇場が広がり、入場料はどこも5セント("nickel")で統一されていたことから「ニッケルオデオン」と呼ばれた。その数は1907年から1908年にかけて倍増し、推定8,000(一部資料では8,000〜10,000)館に達したとされる。
当時の推計では、1910年には週あたり約2,600万人のアメリカ人がニッケルオデオンに通っていたとされる。1910年の米国人口は9,228万人(米国人口調査局)。2,600万人はその28%にあたり、同時代の記録は「国民のほぼ3分の1が毎週映画に通っている」と書き残している。
蓄音機は量産化によって「高価な珍品」から「家庭の半分近くが持つ商品」へ、映画は最初から一貫した5セントという値付けによって「誰でも毎週通える娯楽」へ。どちらも、それまで一部の階層にしか開かれていなかった娯楽を、初めて大量消費できる商品に変えたという点で軌を一にしている。
蓄音機は量産で安くなり、映画は最初から安かった。経路は違うが、どちらも1900〜1920年代に「娯楽を誰にでも買える商品にした」という同じ転換を体現している。
この「誰にでも」という評価は、数字を見る限り言い過ぎではない。当時の非熟練労働者の日給は地域差が大きいものの、おおむね1〜2ドル程度だったと記録されている(1917年のピッツバーグでは組織労働者が1.65ドル、非組織の労働者が1.85〜2.25ドル、1916年のジョージア州メーコンでは1.25ドルという地域調査が残る)。5セントは、その日給のおよそ20分の1〜40分の1にすぎない。
当時の大人向け演芸場(ヴォードビル)の入場料は、安い劇場でも10セントが相場だった(オレゴン州ユージーンのOrpheum、同州アルバニーのDreamlandはいずれも10セント)。ボルチモアの1915年の記録では10〜25セント、シカゴの新築劇場Palaceでは1912年当時、夜の部が25セント〜1ドルという高級路線だった。同じ娯楽でも、5セントのニッケルオデオンはその半額から20分の1という価格帯にいた。
映画は、ヴォードビルが相手にしていなかった客層——わずかな手持ち銭しかない子どもや、安い労働で日々を暮らす都市労働者——を、初めて定期的な娯楽の客として取り込んだ。「誰にでも開かれた娯楽」という評価は、この価格差が実際に作り出した現象だった。
観客が払う入場料は、5セントのまま変わらなかった。しかし映画を作り、配給し、上映する側の構造は、同じ時期にまったく別の方向へ動いていた。1908年、エジソンを中心に主要映像会社9〜10社(資料により数え方が割れるが、エジソン・バイオグラフ・ヴァイタグラフ・エッサネイ・セリグ・ルービン・カレム・パテ等が核)が特許をプールし、Motion Picture Patents Company(通称「エジソン・トラスト」)を結成した。原材料の生の映画フィルムを供給するイーストマン・コダック社とも独占契約を結び、フィルム自体の供給もライセンス会社に限定した。
Foxは免許取り消しに対して1912年に提訴し、これが引き金の一つとなって米司法省は同年8月16日、シャーマン法違反でMotion Picture Patents Companyを提訴した。1915年10月、連邦地裁はトラストの行為を「特許の保護に必要な範囲をはるかに超えている」として違法と認定し、General Film Companyも裁判所の命令で解体された。会社側の最後の上訴も1918年に退けられ、10年に満たない期間でトラストは消滅した。
この間、独立系の製作者たちは東海岸から距離を置くため西へ移動していた。ニュージャージーのエジソン側の法務拠点から3,000マイル近く離れた南カリフォルニアでは、裁判所もトラストの特許執行網にそれほど縛られていなかったとされる。歴史家の多くは、この移動の理由を特許訴訟からの逃避だけに帰してはいないが、後にハリウッドとなる土地に独立系の製作者が集まった背景の一つとして、この構造は無視できない。
観客が払う5セントは、何も語らない。同じ時期、上映業者は週2ドルの使用料を払い、配給会社58社のうち57社は買収か免許剥奪のどちらかを迫られていた。「誰にでも開かれた娯楽」という物語の裏で動いていたのは、特許による独占の構造だった。
蓄音機は量産化によって家庭の4〜5割に広がり、ニッケルオデオンは一貫した5セントで人口の3割近くを毎週映画館に通わせた。どちらも「娯楽が初めて大量消費できる商品になった」という評価に値する、本物の転換だった。しかしその転換は、業界の構造が自由で競争的だったことの証明にはならなかった。観客の払う5セントが変わらなかった裏で、上映業者と製作者の側は、特許を握った少数の会社群によって配給網の98%近くを一度は買い占められていたのである。
この連載はさらに1世紀近く遡り、産業革命で生まれた都市労働者階級向けに、music hall・行楽地・万国博覧会といった商業娯楽施設が勃興した19世紀のヴィクトリア朝イギリスを見る。前回扱った1930-40年代の映画とラジオの絶頂と解体とあわせて読むと、「安さが開放を意味するわけではない」という構図が、この連載を通じて繰り返されていることが見えてくる。続きは次回。
本記事の要約・引用元。
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