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「社員の幸せ」を謳う会社に移ると、病欠だけが増えた。通院は、増えていない。

デンマークの全企業が当局に提出する決算報告書250万件超を言語モデルで採点し、「ウェルビーイング」という言葉がどれだけ前面に出ているかを数値化した研究がある。この発信度が高い企業に転職した労働者7万人超を追跡すると、病欠は目に見えて増えたのに、薬の処方も入院も通院も、何ひとつ動かなかった。

この記事で手に入るもの

250万件の決算書をAIで採点する「発信度」の測り方、17万件の企業データで見えた発信度と不調の相関、そして7万人超の転職者を追った自然実験が暴いた「休みだけが増え、治療は増えない」という非対称までを追う。

01 — 問い

「ウェルビーイングを謳う会社」を、どう数値化するか

企業が決算書や統合報告書で「社員のウェルビーイング」に触れる頻度は、この10年で明らかに増えた。だがそれは単なる言葉の流行りなのか、それとも職場の何かを実際に映しているのか。イタリア・デンマーク・米国の経済学者チーム(Di Francesco, Hull & Menon, 2026)は、この問いに正面から取り組んだ。

使ったのは、デンマークの全企業が法律で提出を義務づけられている年次決算報告書、2013〜2022年分の全数——250万件超の文書、1億5千万文、40億語。法定書類であり企業の任意のPR素材ではないため、「発信したい企業だけが発信する」という選択バイアスが入りにくい。

01

まず「辞書」を用意する

心理言語学で検証済みの語彙リスト(LIWCの「メンタルヘルス」「ウェルネス」カテゴリ)から293語を選定。coping・mindfulness・well-beingのような、ウェルビーイングという概念を指す言葉の集合を先に固定する。

02

文単位でAIに近さを測らせる

文章埋め込みモデル(Sentence-BERT)で、報告書の一文一文とこの辞書語の集合を、意味の近さとして数値化する。単純なキーワード一致より優れているのは、婉曲な言い回しや文脈も拾える点。

03

一番濃い5%だけを見る

1本の報告書の中で、辞書語に最も近い上位5%の文の近さを、その企業の「ウェルビーイング発信度スコア」とする。大半が定型的な財務用語で占められる決算書の中で、ウェルビーイングに触れた数少ない一節だけを拾い上げる設計になっている。

このスコアが単なる業種特有の定型文でないことも確認済みだ。業種の違いでスコアの分散を説明できるのはわずか1.5%、対して企業ごとの固定効果は65%を説明する——つまり同業種内でも企業によってスコアは大きくばらつき、それは業種の慣習ではなく個々の企業の選択を反映している。賃金水準や労働者の年齢構成、労組加入率といった既存の行政データともほぼ無相関で、行政データが記録していない「企業の何か」を捉えていることが分かる。


02 — 発信度が高い企業ほど、労働者の不調も多い

ただしこれは、まだ「相関」でしかない

17万1,982件の企業年データ(3万1,314社)で、発信度スコアと労働者の健康関連指標を突き合わせると、方向はどれも同じだった。発信度が高い企業ほど、精神科系の薬剤支出・服薬量・処方回数・入院日数・病欠日数のいずれも、統計的に有意に高い。精神科医・心理士への受診についても、少なくとも「一人でも受診者がいるか」という指標では強い正の相関を示した。

だが、これだけでは2通りの読み方ができてしまう。一つは「発信度の高い職場文化が、労働者の行動を実際に変えている」という読み方。もう一つは「もともと不調を抱えた労働者が多い企業ほど、ウェルビーイングについて語る理由があるだけ」という、逆方向の読み方だ。同じ企業を一度しか観測できない限り、この2つを見分ける手段はない。

「発信度が高い企業の労働者は不調が多い」という事実だけでは、原因と結果が分からない。職場が労働者を変えているのか、労働者の構成が発信を促しているのか——答えるには、同じ人が職場を変える瞬間を観察するしかない。


03 — 転職者7万人超で確かめる

同じ人が「発信度の高い会社」に移ったら、何が変わるのか

研究チームは、在職中に一度だけ転職した労働者7万1,714人(転職前後3年ずつ、計68万4,432人年)を追跡した。転職前の会社と転職後の会社とで、ウェルビーイング発信度スコアがどれだけ変わったか(発信度の差分)を計算し、その差分の大きさと、転職前後での健康関連指標の変化を結びつける設計だ。

転職の前に体調が悪化していたから発信度の高い会社に「逃げ込んだ」だけではないか、という懸念にも複数の角度から答えている。転職者は発信度の高い会社・低い会社のどちらに偏って移るわけでもなく、転職の方向は労働者の属性ともほぼ無関係で、転職前の指標の推移にも右肩上がりの予兆は見られない。

それでも転職の瞬間、病欠だけがはっきり動いた。発信度の差分が1標準偏差上がると、転職1年後の病欠日数は約0.56日増加する——転職前の平均(年間2.41日)のおよそ4分の1にあたる規模だ。「その年に一度でも病欠を取ったか」という指標も、約5パーセントポイント上昇する(転職前平均28%のおよそ5分の1)。この上昇は転職直後だけの一時的な跳ねではなく、その後も高い水準のまま安定した。

ところが同じ転職者について、処方薬の支出・服薬量・処方回数、精神科・心理士への受診、精神疾患による入院日数、さらには呼吸器系・筋骨格系の入院日数まで見ても、どの指標も転職前後でまったく動かない。すべての事象時点で統計的にゼロと区別がつかない。

本当に体調が悪化したなら、通院も薬も病欠と一緒に増えるはずだ。増えたのは、休みだけだった。


04 — これは「サボり」だったのか

半分は、医師の診断書が必要な"本物の休み"だった

この反応が「なんとなく休みやすくなっただけ」なのか、それとも意味のある休養なのかを見分けるため、研究チームは休みの中身を分解している。性別・年齢・職種・通勤有無で分けても反応の大きさはほぼ同じで、特定の属性に偏った現象ではない。

01

すでに通院歴がある人ほど、日数が伸びる

転職前からメンタルヘルス関連の医療を利用していた労働者と、していなかった労働者に分けると、「休みを取るようになる」確率はどちらの群でもほぼ同じだけ上がる。だが増えた日数そのものは、通院歴がある群でおよそ2倍大きい。それでいて、通院歴がある群の医療利用そのものは、転職後も変わらない——最も体調悪化を検出しやすいはずの集団で、医療指標は動かなかった。

02

増えた日数の半分は、医師の診断書が必要な長期休暇

デンマークの制度では、休みの最初の数日は自己申告だけで足り、一定期間を超えると医師の診断書が必要になる。増えた休みの「件数」はほとんどが短期(5営業日以内)だが、少数の長期休暇(診断書が必要な水準)が、増加した日数のおよそ半分を占めていた。単なる仮病の水増しでは説明しにくい構成だ。

研究チームはさらに、転職しなかった労働者(在職中の会社自体の発信度が年々変化した集団)でも同じ非対称——病欠は動くが医療利用は動かない——を確認している。転職者と在職者は、労働者の顔ぶれも発信度が変わる理由もまったく別なので、両方で同じパターンが出たことは、この効果が労働者側の事情ではなく職場側の要因であることを補強する。また、発信度の高い会社ほど給料が低い(福利厚生を賃金の代わりに提供している)という「補償賃金格差」の可能性も検証されたが、賃金差と発信度の差分には相関がなく、賃金を統制しても病欠の反応は変わらなかった。

発信度の高い職場は、労働者を病気にしているわけではない。体調不良を「休むに値する理由」として申告できるかどうかの、心理的な敷居を下げているだけだ。


05 — 結論

言葉のスコアが、行政データの見えない場所を可視化した

研究チームが示したのは、「ウェルビーイングを謳う会社が労働者を健康にする」でも「不健康にする」でもなく、その手前の話だ。企業の発信は、労働者が自分の不調をどう扱うか——我慢して出社するか、それとも休むと申告するか——という行動を動かしている。健康状態そのものを動かしているわけではない。研究チームは、スティグマの低下・休暇制度についての情報格差の縮小・上司の許容度という、いずれも確認はできないが有力な経路をあげている。

この構図はSURPLUSでこれまで見てきた「見えている指標と、実際に効いている変数が一致しない」という系譜——Art152(科学者は信頼されても、説得力は互角だった)の信頼度スコアと、Art153(AIエージェントは賢くなるほど騙されなくなるのか)の推論能力スコア——に連なる。企業のウェルビーイング施策の"成果"としてしばしば参照される通院率や医療費といった数字は、実は経営陣の言葉が本当に動かしている変数(労働者の申告行動)を捉えていない。GDPが取引された量までしか数えられず満足度を測れないのと同じように、行政の健康統計もまた「何が起きたか」までしか数えず、「なぜそれを申告する気になったか」という一段深い層を取りこぼす。決算書という無味乾燥な法定文書の"言葉づかい"を、AIが初めて定量的な企業属性へと変換したことで、この取りこぼされていた層がはじめて見える形になった。

「社員の幸せ」という言葉は、お題目ではなかった。ただし、それが動かしたのは健康ではなく、健康をどう扱うかという判断のほうだった。


06 — 出典

参考文献

本記事の要約・引用元。NBERワーキングペーパーの原著論文(2026年9月時点のドラフト版本文)を精読している。

01
Di Francesco, R., Hull, P. & Menon, S. (2026)Well-Being Salience in Corporate Disclosures and Worker Health. NBER Working Paper No. 35760. 発信度スコアの構築手法、企業年データでの相関(Table 5〜8)、転職者を用いたイベントスタディの推定値(Figure 6〜9)、頑健性検証(在職者サンプル・補償賃金格差の検証)まで、本記事の中心的な出典。
02
Tausczik, Y. R. & Pennebaker, J. W. (2010)The Psychological Meaning of Words: LIWC and Computerized Text Analysis Methods. Journal of Language and Social Psychology 29(1). 発信度スコアの土台となった「メンタルヘルス」「ウェルネス」語彙リスト(LIWC)の出典。
03
Reimers, N. & Gurevych, I. (2019)Sentence-BERT: Sentence Embeddings using Siamese BERT-Networks. EMNLP 2019. 文単位で意味の近さを測る、本研究の言語モデル(Sentence-BERT)の出典。
04
Ahammer, A., Bünnings, C., Hackmann, A. & Schmieder, J. (2024 として本文中に引用)企業と労働者双方の要因に健康関連支出を分解する「移動者デザイン」の先行研究として、本研究の識別戦略の基礎になっている。
SURPLUS BOOKS VOL.1

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