3,600体のAIエージェントに、あなたの代わりに買い物をさせる実験。推論能力を上げれば、人間のような心理的な罠にはもう引っかからなくなるはずだった。21,600回のシミュレーションが見つけたのは、その予想を静かに裏切る結果だった。
小売店の画面に仕込まれた2種類の「ナッジ」——デフォルト設定と「他の客が選んだ」という一言——に、GPT-5.4・Gemini 3.5・Claude Sonnet 4.6ら6モデルがどう反応したかを追った実験の全貌。推論能力を上げると一方のナッジには強くなり、もう一方には逆に弱くなるという交差する結果と、モデルの規模ごとに劇的に割れる感受性のパターンまで。
ChatGPT Agentやブラウザ操作型のAIエージェントが、人間の代わりにネットショッピングをこなす時代が始まっている。McKinseyの調査では企業の23%がこうした自律型AIの利用拡大を計画しており(Singla et al. 2025)、業界予測はオンラインショッピングの姿を2030年までに大きく変えると見ている。
この移行が孕む問題は単純だ。AIエージェントが操作するウェブサイトは、そもそも人間の判断に影響を与えるよう設計された画面だということだ。あらかじめ選択されたデフォルト、目立つ位置に置かれた「人気商品」ラベル——こうした「選択アーキテクチャ」の仕掛けは、行動経済学でいう「ナッジ」そのものである(Thaler & Sunstein 2009)。
素朴な期待はこうだ。AIエージェントには人間のような認知的な近道(ヒューリスティック)も、疲労も、時間的制約もない。だから人間よりナッジに強いはずだ、と。さらに念には念を入れて「推論」を強めてやれば——考える時間を長く取らせてやれば——なおさら騙されにくくなるはずだ、と。2026年9月に公開された論文が、この期待を実験で検証した。
Halimeh, Kaltenpoth, Bösch & Müller(2026)は、Ingendahl, Hummel, Maedche & Vogel(2021)がドイツの人間の消費者を対象に行った実験をほぼそのまま踏襲し、被験者だけをAIエージェントに置き換えた。
舞台は、トマト・バナナ・パン・コーヒー豆・牛乳・パスタの6カテゴリ、各2商品を並べたシミュレーション上のネットスーパー。エージェントは「友人との食事会のために6品を選ぶ」よう指示され、ブラウザ操作ライブラリ(Browser Use)を通じて実際に画面を見て、クリックし、購入を確定する。
統制群(ナッジなし)、デフォルト・ナッジ(Type1・自動的:片方の商品があらかじめ選択された状態で表示される)、社会的証明ナッジ(Type2・反省的:片方の商品に「このカテゴリで最も満足度が高い」という一言が添えられる)の3群にランダム割付。
OpenAI(GPT-5.4/GPT-5.4-mini)、Google(Gemini 3.5 Flash/Gemini 3.1 Flash Lite)、Anthropic(Claude Sonnet 4.6/Claude Haiku 4.5)——各社の旗艦モデルと軽量モデルを1体ずつ、それぞれ「推論オフ」「推論オン」の2設定で走らせる。
各モデル×各推論設定×各条件につき100体、合計3,600体のエージェント。1体が6カテゴリぶん商品を選ぶため、分析対象になった意思決定の総数は21,600回にのぼる。
同じ画面、同じ仕掛け、違うのは"買い物客"だけ。人間で確認された古典的なナッジ実験の舞台に、そっくりそのままAIエージェントを立たせたのがこの実験だった。
統制群(ナッジなし)では、狙った商品が選ばれる確率はほぼ50%——実験デザイン通り、AIエージェントにも極端な好みの偏りがないことがまず確認された。
ここにデフォルト・ナッジをかけると、選択確率は推論オフのエージェントで約92%、推論オンのエージェントで約86%まで跳ね上がる。社会的証明ナッジではさらに強く、推論オフで約96%、推論オンで約98%に達した。統制群からの上昇幅をオッズ比に換算すると、デフォルト・ナッジでおよそ9倍、社会的証明ナッジでは30倍を超える——しかもこの傾向は6モデルすべてで例外なく観測された。
さらに踏み込んだ比較として、論文はこの実験の元になった人間対象の実験(Ingendahl et al. 2021)にも言及している。AIエージェントは、その人間の参加者よりもさらにナッジに敏感に反応していた。「認知的な近道を持たない分、人間より合理的なはずだ」という素朴な期待は、この時点で早くも裏切られている。
本題はここからだ。論文が検証したかったのは「推論を強めればナッジに強くなるか」という問い。答えは半分イエス、半分ノーだった。
推論は脆弱性を消さない。効くナッジの種類を入れ替えるだけだった。「よく考えるAI」は、店のデフォルト設定には引っかかりにくくなる一方で、「他の客が選んだ」という一言には、むしろ以前より強く引っ張られるようになった。
論文が二重過程理論(Dual-Process Theory)から導いた解釈はこうだ。推論を強めることは、自動的な反応(System 1的な処理)を抑え、目の前の情報をより深く吟味する(System 2的な処理)方向に働く。デフォルト設定はまさにその「自動的な反応」につけこむ仕掛けなので、深く考えるほど素通りしにくくなる。ところが社会的証明のメッセージは逆に、深く吟味すればするほど「みんなが選んでいる」という情報そのものへの注意と重みづけが増してしまう——熟慮それ自体が、別のタイプの影響を招き入れる回路になっていた。
6モデルを平均したパターンの裏側には、もっと極端な個体差が隠れていた。
整理すると、「推論を強めるとデフォルト・ナッジへの耐性が上がる」という効果は主に旗艦モデルに集中し、「推論を強めると社会的証明への同調が強まる」という効果は主に小型モデルに集中していた——推論というアップグレードが、モデルの規模によって正反対の顔を見せていたことになる。
これは検索順位という"広告費"がAIエージェントの前で意味を失った話や、科学者の信頼度と説得力が食い違った実験と同じ系譜にある。AIエージェントは、人間の代わりに選ぶ存在になるほど、独自の——そして時に人間よりも極端な——心理的なクセを持つようになる。「推論能力を上げる」というアップグレードは、その万能の対策にはならなかった。
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