1942年、哲学者アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』の最後の一行にこう書いた——「シーシュポスは幸福だと想像しなければならない」。目的地のない反復労働の象徴とされてきたこの神話の主人公は、本当に幸福でありえたのか。カミュより後に積み上がったフロー理論・労働社会学の実証研究を通して、80年越しの逆説を読み直す。
カミュの原著が実際に主張していたこと(苦悩への耐久ではなく「反抗」)から、チクセントミハイのフロー理論を検証した2023年の最新メタ分析(60,110人・113研究)、単純作業の労働者17人を追った2023年の現象学的研究、そしてデヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」論をめぐる2022年と2023年の相反する追試結果までを一つずつ確認し、「反復労働の中の幸福」という逆説がどこまで実証に耐えるかを検証する。
ギリシャ神話のシーシュポスは、神々を欺いた罰として、岩を山頂まで押し上げる労働を課された。だが岩は頂上の直前で必ず転がり落ち、彼はまた麓から押し上げ直す。この労働には終わりがなく、蓄積もない——押し上げるという行為そのものが目的化することさえない、純粋な反復である。
この神話を主題にした一冊の哲学書の結論が、なぜ「幸福」だったのか。1942年に発表されたカミュの『シーシュポスの神話』は、人生に意味を求める人間の欲求と、意味を返さない世界との対立——カミュが「不条理」と呼んだもの——を扱った一冊だ。この記事が検証したいのは、カミュの哲学的な主張そのものの正しさではない。むしろその後80年で積み上がった心理学・労働社会学の実証研究が、この逆説とどこまで噛み合うか、あるいは噛み合わないかを確かめることだ。
補足——本サイトでは働かないことは、幸せか|失業だけが「慣れない不幸」である理由で、労働から離脱すること(失業)が幸福に与える影響を扱った。今回のテーマはいわばその裏側にあたる。離脱するかどうかではなく、すでに労働のただ中にいる人間にとって、その労働に終わりが見えない・積み上がる手応えがないという条件そのものが、幸福を破壊するのか、それとも共存しうるのかという問いである。
ここでの問いはひとつ。労働の「反復性」そのものが不幸の原因なのか、それとも別の何かが原因で、反復性はただの舞台装置にすぎないのか。
カミュの議論は、しばしば「意味のない人生でも耐えて生きろ」という忍耐の哲学として要約される。だが原著が実際にたどっている論理は、もう少し込み入っている。
カミュはまず、不条理に対する2つの「逃げ道」を退けるところから始める。ひとつは文字通りの自殺——不条理という対立そのものを、対立する当事者を消すことで解消する道。もうひとつは、宗教や体系的な思想に飛躍して「実は宇宙には意味がある」と信じ込む道——カミュはこれを「哲学的自殺」と呼び、不条理から目をそらす欺瞞だとして退けた。カミュが代わりに提示したのが「反抗」——意味を与えられないという事実を解消せずに、それを完全に意識しながら生き続けるという第三の道である。
カミュが特に注目したのは、岩が転がり落ちたあと、シーシュポスが麓へと下っていく束の間の休止だ。この時間、シーシュポスは自分の運命を完全に意識している。押しつけられた罰を、意識によって見つめ返すこの瞬間においてのみ、岩は彼にとって「彼のもの」になる——カミュはそう位置づけた。
心を乱すのは、出来事ではない|2000年前の一行が、認知行動療法の起源になったで見たストア派の「コントロールの二分法」と、カミュの反抗は「変えられないものを受け入れる」という点で似て見える。だが決定的に違うのは、ストア派が変えられない現実の背後に理性的な宇宙の秩序(ロゴス)を想定するのに対し、カミュはそのような秩序の存在自体を認めない点だ。カミュにとって世界は最後まで沈黙したままであり、意味を与えるのは秩序への服従ではなく、無意味さを見つめ続ける意識そのものだった。
幸福を分けるのは、結果ではなかった|「やりたいから」と「やらなきゃ」の分岐点で見た接近動機・回避動機の枠組みに寄せて言えば、カミュの反抗が試みているのは、物理的な行為(岩を押す)を一切変えずに、その行為へのスタンスを回避(強制されているから)から接近(意識的に引き受けたから)へと転換することだ。課題の中身は同じでも、それへの構えが変われば結果の質が変わりうるという主張は、現代の動機づけ研究と構造が近い。
カミュの主張を一言で言えば。「反復労働そのものが幸福を破壊する」のではなく、「その労働に対する意識の持ちよう次第で、結果の符号が変わりうる」という立場だった。この先は、この立場が現代の実証研究とどこまで噛み合うかを見ていく。
カミュの主張を心理学の言葉に翻訳するなら、最も近いのはミハイ・チクセントミハイのフロー理論だろう。課題の難易度と自分の技能が釣り合ったとき、人は時間の感覚を失うほど没入し、その没入自体が主観的な幸福感の源になる——1975年に提唱されたこの理論は、以後半世紀にわたって拡張されてきた。
ここで重要なのは、フロー理論はもともと「高い挑戦と高い技能の釣り合い」を前提にしており、反復的で単純な作業はむしろフローの対極(退屈)に位置づけられてきたという点だ。だとすれば、シーシュポスの単純な反復労働は、フロー理論の枠組みでは幸福とは縁遠いはずになる。だが2020年以降のこの領域の実証研究は、この前提に修正を迫っている。
Liu, Lu, Li, van der Linden & Bakker(2023, Journal of Vocational Behavior)による113研究・60,110人を統合したメタ分析では、職務特性・個人特性・個人の行動・リーダーシップ特性という4系統の予測因子のうち、「個人の行動」がフローとの関連が最も強い(ρ=0.55)ことが確認された。つまり、仕事の客観的な内容(職務特性)そのものよりも、その仕事にどう関わるかという本人側の振る舞いのほうが、フローの発生を強く予測する。「何をしているか」より「どう関わっているか」が効くという構図は、カミュの「岩の中身は変わらないが、意識の持ちようで結果が変わる」という立場と重なる。
さらに直接的な検証が、Clapp, Karwowski & Hancock(2023, Frontiers in Psychology)による現象学的研究だ。データ入力・経理・品質保証など、単純で反復的な業務に従事する17人へのインタビューを分析したこの研究は、「挑戦度の高さ」ではなく「単純さ・予測可能さ・反復性そのもの」がフローの引き金になっていると報告した。参加者の言葉を借りれば、作業の「単純さと反復性」自体が没入を生む——高揚感を伴う古典的なフローとは異なる、目標志向の「くつろいだフロー」とでも呼ぶべき状態だった。
ここまでで言えること。反復的で単純な作業は、フロー理論が当初想定した「フローが起きにくい条件」ではあっても、「フローが起きない条件」ではないらしい。ただしこれは17人規模の質的研究一本の知見であり、大規模な追試で確認された頑健な効果ではない。
留保。同じ2023年のメタ分析は、フローと燃え尽き・ネガティブ感情との関連は、フローと職務態度・業績との関連より弱いとも報告している。フローは「強い不幸を打ち消す力」としてはまだ実証が薄く、「前向きな状態を強める力」としての証拠のほうが厚い。また2024年の理論的検討(Sport and Exercise Psychology Review掲載)は、フロー研究自体が理論的な行き詰まりを指摘され始めていることにも触れている——この領域はまだ発展途上だ。
ここで視点を変える対抗仮説がある。人類学者デヴィッド・グレーバーが2018年の著書『ブルシット・ジョブ』で提示したのは、「反復的でつらい労働」と「無意味な労働」は別物だという区別だった。グレーバーの主張では、苦痛の主因は反復や単調さではなく、働く本人が自分の仕事を社会的に無意味だと自覚してしまうことそのものにある。この区別をシーシュポスに当てはめれば、彼の岩は反復的であると同時に、成果が一切残らないという意味で客観的にも無意味だ——だからこそ、この論争は的外れではない。
グレーバーの仮説は明快で検証可能な形をしていたが、大規模なデータでの検証は理論の発表後に持ち越された。その検証結果は、一枚岩ではなかった。
EU圏の代表性のある調査データ(2005〜2015年)を用いてグレーバーの5つの核心的仮説を検証したSoffia, Wood & Burchell(2022, Work, Employment and Society)は、「自分の仕事は無意味だ」と感じる労働者の割合は、グレーバーが予測したような「大きく増え続けている」ものではなく低く、しかも減少傾向にあると報告した。金融・法務・管理部門に偏るというグレーバーの予測も支持されず、無意味さの自覚を最もよく説明していたのは職種そのものではなく、経営の質や職場環境の劣悪さだった。
翌年、Walo(2023, Work, Employment and Society)は2015年のアメリカ労働条件調査(21職種・1,811人)を再分析し、約19%が「良い影響を与えている」「役に立つ仕事をしている」という設問に「めったに・全く当てはまらない」と回答したことを示した。しかもこの割合は、金融・営業(約2倍)、管理職(1.9倍)、事務職(1.6倍)など、まさにグレーバーが名指しした職種で有意に高かった——グレーバーが名指しした職種のうち「法務」だけは、統計的に有意な支持が得られなかった。
この論争、まだ決着していない。「仕事の無意味さの自覚」がグレーバーの予測どおり特定職種に偏るのか、それとも経営環境次第で誰にでも起こりうるのかは、現時点で一致した結論が出ていない。ただし両者は「無意味さの自覚そのものが不幸と強く結びつく」という一点では一致している。
この論争のもう一方の当事者——低スキル・反復的とされる労働の現場そのもの——を直接観察した研究もある。Rostain & Clarke(2025, Organization Studies)は、フランスの金型製造工場で8ヶ月にわたるエスノグラフィー調査を行い、単純作業とみなされる持ち場の労働者たちが、業務の隙間に潜在的な技能や工夫を持ち込む「非正規の職人技」を通じて、自律性と周囲からの承認を勝ち取っていく過程を記録した。反復的な持ち場そのものは変わらないまま、そこに関わる本人の技能と工夫の余地——いわば岩の押し方を自分のものにする余地——が、労働の意味を変えていた。
3つの研究に共通する糸。反復性そのものではなく、自律性・承認・そして本人がその労働にどう関わるかという意識の持ちようが、労働の心理的な符号を決めている。これはカミュが「岩は彼のものになる」と書いた論理と、驚くほど噛み合う。
フロー理論・ブルシット・ジョブ論・職人技のエスノグラフィーという独立した3つの研究群は、いずれも「反復性そのものが不幸を生む」という単純な図式を支持しなかった。むしろ一致して指し示したのは、自律性・承認・そして本人の関わり方という変数だった。これはカミュの「岩の中身は変わらないが、意識の持ちようで結果が変わりうる」という立場と両立する。
だが、両立することと、証明されることは別の話だ。カミュが書いたのは「シーシュポスは幸福だ」ではなく「幸福だと想像しなければならない」だった。この言い回し自体が、観察ではなく要請であることをカミュ自身認めている。ここであなたの中には、幸福の顧客が2人いる|経験する自己と記憶する自己で見た区別を借りるなら、フローが宿るのは岩を押している最中の経験する自己においてであり、「シーシュポスは幸福だ」という物語を組み立てて差し出しているのは、麓から山頂を眺めて意味を編み直す記憶する自己(あるいはカミュという語り手)のほうだ。この2つの自己の間には、常にすきま風が吹いている。
結論。反復労働そのものが幸福を破壊するという単純な図式は、フロー理論・労働社会学のどちらの実証研究からも支持されなかった。効くのは自律性・承認・関わり方だ。ただし、この労働に本当に「幸福」という強い言葉がふさわしいのかどうかは、心理学がまだ測り切れていない。
限界。本記事で紹介した実証研究の対象は、賃金・人間関係・退出の自由・有限な労働時間を持つ現代の労働者であり、脱出の可能性が一切ない永劫の罰を課された神話上の人物とは条件が大きく異なる。フロー研究の一部(Clapp et al. 2023)は17人規模の質的研究であり、大規模な追試による頑健性の確認はまだない。
補足。ブルシット・ジョブ論をめぐる2つの追試(Soffia et al. 2022とWalo 2023)は、調査年・調査国・分析手法が異なり、直接の追試関係にはない。「どちらが正しいか」ではなく「決着していない」という状態そのものを、本記事は誇張せずに伝えている。
本記事の要約・引用元。カミュの原著から、フロー理論の最新メタ分析、ブルシット・ジョブ論をめぐる相反する追試までを対応させている。
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