ベトナムの稲作農家2,896世帯に聞くと、57%が降雨保険に「払う」と答えた。市場価格の半額なら33%、満額でも18%が買うと申告した。だが実際にその価格で保険を売りに行くと、対象になった1,375世帯の誰も買わなかった。
申告された需要曲線(WTP57%/33%/18%)と、実売の結果(購入世帯0)という落差の全体像、価格を最大95%引きにしても動かなかったという事実が示す非価格の壁、そして研究チームが提示する3つの説明——調査方式の作り・リスク認識の風化・保険会社への不信——を確認する。
開発経済学の現場で、支払意思額(WTP)調査は定番の道具だ。保険・ワクチン・浄水器・新しい農業資材——まだ市場に根付いていない商品やサービスへの需要を測るとき、研究者は「いくらまでなら払うか」を尋ね、そこから需要曲線を描く。
この手法が成立する前提は単純だ。アンケートで「買う」と答えた人は、実際に売りに来られたときも、おおむね買う——という前提。もしこの前提が崩れていたら、開発援助・保険普及・新技術導入の計画の少なくない部分が、存在しない需要の上に設計されていることになる。
Mogge, Roeckert, Nshakira-Rukundo & Kraehnert(2026, Ruhr Economic Papers No.1220)は、ベトナムの稲作農家を対象に、この前提そのものを検証した。
「買う」と言った人の何割が、実際に買うのか。開発経済学のWTP調査は、長年この問いを素通りしてきた。
調査対象はメコンデルタの稲作農家2,896世帯(3,002世帯の調査対象のうち、WTP調査に回答した世帯)。対象の保険は、insurtech企業Igloo Insureが2022年に売り出した降雨インデックス保険——1ヘクタール・30日間のプランで、市場価格は2ドル。一定の降雨量の閾値を5日間で超えると、農家側の申告なしに自動で保険金が支払われる仕組みだ。
研究チームは、無作為に決めた価格を一人ひとりに示し、「その価格なら買うか」を尋ねる手法(multiple-bounded dichotomous choice)でWTPを測定した。結果、57%が正のWTPを申告、33%が市場価格の半額(1ドル)以上、18%が市場価格(2ドル)以上で買うと答えた。価格を半額にすれば、買いたいと答える人の割合はおよそ2倍に増える——教科書どおりの、きれいな需要曲線だった。
ここで調査を終えていれば、「稲作農家には降雨保険の需要がある」という、援助機関や保険会社が聞きたい結論がそのまま出ていたはずだ。
需要曲線は健全に見えた。だが、この"需要"は、まだ1ドルも動いていない。
研究チームの仕掛けはここからだ。WTPの調査は、ただの質問では終わらなかった——回答者が申告したWTPが、無作為に示された価格を上回っていれば、その世帯は市場価格から20〜95%引きのバウチャーを受け取れる。つまり、自分が「買う」と言った価格より確実に安い値段で、実際に保険を買えるチャンスが与えられた。
該当した世帯は1,375世帯。Igloo Insureの代理店が後日訪問し、バウチャーを使えば保険を買えると案内した。
結果。バウチャーを受け取った1,375世帯のうち、保険を購入した世帯は0世帯。調査から3日以内に代理店が訪問した、時間差が最も短い世帯に限っても、購入者は1人も出なかった。
著者たちはまず価格そのものを疑ったが、すぐに退けている。最大95%引き——市場価格2ドルの保険が、実質ほぼ無料に近い値段になっていても、購入行動には結びつかなかった。先行研究(Cole et al. 2013)が「価格の引き下げだけでは、高い普及率は実現しない」と指摘していたことと一致する結果だが、今回はその"不十分さ"が極限まで振れた形になる。
価格を下げれば需要は増える、という前提そのものは間違っていない。だが今回は、どれだけ下げても、ゼロから1世帯も動かなかった。
著者たちは、申告WTPと実購入のこの落差について、互いに排他的でない3つの説明を提示している。
理想的なWTP調査は、その場で現金が動く拘束力のある取引(Becker-DeGroot-Marschak法など)を使う。だが今回はバウチャー方式——受け取っても使わなくても何のペナルティもない。著者たちが参照するBerry, Fischer & Guiteras(2020、ガーナの浄水器)のような拘束力のある手法を使った先行研究では非遵守がほとんど見られなかったのに対し、今回は「言うだけなら無料」という調査設計そのものが、申告された数字を実態より大きく見せていた可能性がある。
WTPは、天候リスクに関する詳しい質問を終えた直後に尋ねられた。その瞬間はリスクへの意識が高まっていたが、バウチャーを使う機会はそれから日数が経ってから訪れる。意識の高まりが薄れた頃には、同じ世帯でも評価が変わっていた可能性がある。ただし調査後3日以内に訪問された世帯でも購入者はゼロだったため、この説明だけでは説明しきれない。
Igloo Insureは、当時ベトナムの農村で実績のない新規参入の保険会社だった。2022年に起きた生命保険の不正販売スキャンダルの余波もあり、保険業界全体への不信が根強い時期でもある。さらに、新しい商品・事業者の"お墨付き"を担うはずの協同組合や村の指導者を介さず、個々の世帯に直接営業をかけたことが、商品の正当性を下げた可能性もある。調査員への回答と、知らない営業担当者への実購入は、同じ「買いますか」でも心理的な距離がまったく違う。
どの説明が正しいかを、この研究だけで切り分けることはできない。著者たち自身がそう認めている。だが共通するのは、ゼロという結果が「農家に保険の需要がない」ことを意味するわけではない、という点だ。需要はある。だが、それを実際の購買行動に変換する経路のどこかに、価格ではないものが壁として立っている。
「買う」と答えることと、「買う」ことの間には、価格では埋まらない距離がある。
支払意思額調査は、援助機関や企業が新しい市場への投資を判断する際の、最初の、そして最も手軽な根拠になりやすい。「○%が買うと答えた」という数字は、計画書の中では説得力を持つ。だが今回の結果は、その数字が時に、実態をまったく反映しない可能性を突きつける——57%という申告された需要が、0世帯という実売に行き着いた。
この落差は、稲作農家やベトナムに特有の話ではない。信頼されている人が、一番説得力があるとは限らないで見た「どう思われているか」と「実際に動かされたか」のズレと同じ構図が、ここでは「言ったこと」と「したこと」のズレとして現れている。人は、お金を払う場面に立つまで、自分自身の本当の評価を知らないことがある。
開発経済学の現場でWTP調査を使い続けるなら、この研究が示した教訓は一つだ——申告された需要曲線は、せいぜい仮説にすぎない。実際にお金が動く場面を一度作ってみるまで、それが本物の需要なのかは誰にもわからない。
57%が「買う」と言い、0世帯が買った。この50ポイント以上の落差こそが、"見えない豊かさ"の経済学が本当に測るべき数字だ。
本記事の要約・引用元。
連載の主要記事を1冊に再構成し、書き下ろしを加えたKindle本です。数字では測りにくい豊かさを、所得・時間・関係・自由の視点から読み直します。
Amazonのアソシエイトとして、meclGGは適格販売により収入を得ています。